A.W.トーザー著「Pursuit of God (神への渇き)」の序文の訳です。本文訳は逐次、アップする予定です。

神への渇き

前書き

暗闇が世界を取り囲むこの時代において、かすかな希望の光が一つ現れています。伝統的キリスト教の群れの中に、神御自身を深く求める信者がますます増えてきているのです。彼らは熱心に霊の現実を求めており、どんな言葉も、また真理についてのいわゆる正統派「解釈」も彼らを満足させることはできません。彼らは神を渇望しており、その渇きは生ける水の源から思う存分飲んで満たされるまで癒されません。

これこそ、私がキリスト教世界で探り当てることができる唯一かつ真のリバイバルの兆しでした。それはあちこちに散在するわずかな聖徒たちが待ち望んでいた、手のひらほどの雲に例えられるかもしれません(註釈:著者はここで、おそらく列王記上18章44節に記されている「手のひらほどの小さな雲」–乾いた地についに雨をもたらす前兆のことを言っている)。それは多くの人の命の復活と、この時代において神の教会でほとんど見られなくなった、キリスト信仰に伴うべき輝かしい驚きの再体験につながることでしょう。

しかしこの渇きはクリスチャン指導者達に認識されなくてはなりません。近代福音主義は祭壇を積み上げ、供え物を切り分けましたが、今は祭壇の石を数え、切り分けられたものを並び変えることに満足して、カルメル山の上に火の印が見られないことに気にも留めません。(註釈:これは礼拝儀式の形式にこだわるものの、天から下る火として象徴される神の御霊の不在について無頓着な人たちについての例えです。列王記上18章20-29節参照のこと。)しかし感謝することに、それに心を痛める者がわずかに存在します。彼らは祭壇を愛し、喜んで供え物を捧げますが、長引く聖火の不在に甘んじることができないのです。彼らは何よりも神を求めます。聖なる預言者らが書き記し、詩篇作者らが歌ったキリストの愛の「心を射るやさしさ」を自ら体験することを渇望しているのです。

現在、キリストの教えの本質を正しく教示する聖書教師は足りていますが、しかしその多くが、同じ基本を毎年毎年教えることに満足し、ミニストリーに御臨在がいっさい感じられず、個人生活においても変わったことがまったくないことになぜか気づかないでいます。聖書教師は信者たちの飢えを満たせずにいます。

愛のゆえに語らせてもらいますが、養われない説教というのは現実問題です。ミルトンによる「飢えた羊は顔を上げるが、満たされないまま」というぞっとする一句は、この時代にも変わらずうまく当てはまるものです。

御父の食卓に着きながら空腹が満たされないままでいる神の子らがいるということは、御国において小さなことでも無視して過ごせることでもありません。ウェズレイの言葉はまさに真実です。「正統主義、あるいは正しい見解は、宗教において最も重要な要素ということではない。正しいは心は正しい見解なくしては存在しえないが、正しい見解は正しい心なくしても存在しうる。神に対して愛や正しい心を持たなくても、神についての正しい見解を持つ事はあり得る。サタンがそれを証明している。」

私たちの素晴らしい聖書協会や効果的なキリスト教機関が神の言葉を広めることによって、現在何百万もの人々が「正しい見解」を持っており、その数は教会史において最多に及びます。しかし同時に、真の霊的礼拝がここまで落ちてしまった時代は今までにあったでしょうか? 教会の大部分では本来の礼拝の在り方が失われてしまい、「プログラム」と呼ばれる奇妙で異質なものと入れ替えられています。この言葉は劇場用語から借りてきたもので、世間の儀式に適用され、悲しいことに今では、私たちの礼拝に使われています。

正しい聖書解説は生ける神の教会になくてはならぬものです。それなくしては、どの教会もその名の厳密な意味からして、新約聖書に基づく教会と名乗ることはできません。しかし聖書解説が聴者に真の霊的栄養をまったくもたらさない形でなされている可能性があります。なぜなら、魂を養うのはただの言葉ではなく、神御自身であって、聴者が神を個人的に経験するのでなければ、真理を聞いても養われないのです。聖書は目的ではなく、信じる者達を満たす深い神の知識に導く手段です。それによって信じる者が神の内に入り、神の御前に喜び、自分たちの心の中心において神御自身の秘められた美しさを味わい知るようになるためです。

本書は神の飢え渇いた子らが神を見い出すのを助けるためのささやかな試みです。霊的現実が私の心に喜びと興奮をもたらしてくれた発見を除いては、何も新しい内容ではありません。すでにこれらの聖なる神秘について、私よりずっと深いところまで明らかにしてくれている先人たちもいます。私の灯火は小さいものですが、それでも確かに実在してあるものです。この灯火が誰かの心のキャンドルに火を灯すことを願って。

エイデン・W・トウザ―

イリノイ州、シカゴ

1948年6月16日