ペテロの手紙ペテロ#8 

神の選びの結果 

https://ichthys.com/Pet8.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著 

第一ペテロ1:1-2の改訂訳: 

イエス・キリストの使徒であるペテロから、父なる神の予知により、聖霊の聖別を受け、イエス・キリストの血の注ぎかけのもとに従順な者となるために、選ばれた人々、すなわちポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテニヤの各地に散らされ追放された人たちへ。あなたがたに恵みと平和が増し加わるように! 

復習:  私たちはクリスチャンとして、神によって「選ばれた」者、すなわち神の子として特別に選ばれた者であることを見てきました。イエス・キリストが喜んで十字架にかかり、全人類のために死んでくださったので、御父はすべての人にそのように選ばれる機会を与えてくださったのです。私たちは皆、命と自由意志を持っているので、神について知りたいという意思を神に表明するチャンスがあります。私たちが選んだ(または選出された)理由の根底にあるのは、イエス・キリストを信じるという私たちの決断です。ペテロは2節で、私たちが神の家族と神の計画の一部となるように選ばれるこのプロセスにおいて、三位一体の各メンバーが果たすさまざまな役割について説明しています。 

1.御父は、私たちがクリスチャンとして神の家族に入ることを、宇宙の始まり以前から計画しておられました。私たちは以前のレッスン(ペテロ#2ペテロ#5)で、この概念を予知(ギリシア語のprognosis、「前もって知っていること」)の教義として学びました。神は全知全能であられる。つまり、過去にあったこと、今あること、これから知ることができることをすべて知っておられます。現実のこと(実際に起こったこと、実際に起こっていること、これから起こること)も、潜在的なこと(別の決断がなされたり、別の行動がとられたりしていたら、そうなっていたかもしれないこと)も知っておられ、神は世界を造られる前に私たちを「あらかじめ知って」おられました(ローマ8章29節)。つまり、父なる神は、私たちが生まれるずっと前から、私たちが御子イエス・キリストを信じるようになることを知っておられ、私たちにその機会を与えるために、御自分の計画と私たちの人生を計画されたのです。私たちが実際にイエス・キリストを信じるようになると、私たちは「正式に」神の家族の一員となるのですが、父なる神はこのことを知っておられ、最初からそれを計画しておられたのです。ペテロは、私たちは「神はあらかじめ知っておられる者たちを、…あらかじめ定めて下さった…」と言うとき、この真理を反映しているのです。 

2. 御子は私たちの選びの代価を支払われ、御父の計画の主要な仕事を遂行されました。御子は、私たちのために十字架上で死んでくださるという尊い代価によって、私たちを贖い、罪の奴隷状態から解放してくださったのです。私たちのために十字架上で御業を成し遂げてくださったおかげで、私たちは神の家族入りを妨げるあらゆる障害から解放されたのです(贖罪の教理については、後日詳しく学ぶ機会があります)。 

3. 聖霊は、御父のご計画を力づける代理人です。その計画の中で、神は世界の創造の前から御子に従う者すべてを「選ばれた」のです(ローマ8章28-30節、参照:ガラテヤ1章15節)。私たちがイエス・キリストを信じたとき、聖霊が私たちを神の家族として迎え入れてくださり、神の「選民」に完全に加えられ(私達は「選民」に加わるために、生まれた時から聖別されていました)、「聖化 」あるいは聖別という最初のプロセスを経て、キリストにあずかる者として、私たちは皆、聖霊の保護の下にあるだけでなく、聖霊の宿られる存在となるのです。 

ここで使われている神学用語は少し難しく聞こえるかもしれませんが、概念自体はそうではありません。父なる神は、私たちがキリストを信じることを知っておられ、そのために必要なすべての準備を整えてくださったのです。私たちがキリストを信じるとき、私たちの身分は一変します。なぜなら、キリストの手に人生を委ねる時点で、私たちは真に神の子として選ばれるからです。 

私たちの最初の親(アダムとエバ)の失敗のゆえに、全人類は神から疎外された状態で生まれてきています。(ローマ7章7-25節)この不運な身分を証明するものは二つあります: 

・罪を犯す性質があること(ローマ3章23節列王記上8章46節)。 

・私たちは皆、やがて罪の原罪である肉体の死に直面するという紛れもない事実(創世記2章16-17節)。 

しかし、私たちの代わりにすべての罪の刑罰を支払ってくださったイエス・キリストを信じるとき、私たちの身分は完全に変わり、「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」のです(コロサイ1章13節)。 この身分の変化(クリスチャンになること)には様々な側面があり、聖書では様々な形で説明されています: 

・義と認められること: たとえば、法的な観点からは、私たちはキリストを信じる信仰によって義とされると言われています(ローマ3章)。これは、私たちが神の御前に罪人として有罪であったにもかかわらず、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちの罪と罪悪感が洗い流されたことを意味します。 

・養子縁組: クリスチャンとしての私たちの新しい立場を説明するもう一つの方法は、私たちが今や神の「子」であるということです。パウロはこのプロセスを、キリストを信じるすべての人の御父による「養子縁組」と表現しています。私たちはもはや、私たちの罪を明白に指摘する神の律法の奴隷ではなく、私たちの主キリスト・イエスにある愛する子なのです(ガラテヤ3章21節-4章7節)。 

・聖化: ペテロは、私たちの 「身分の変更」の別の側面、すなわち「聖別」、より一般的に知られているように「聖化」を強調しています。 

聖化の教義: 私たちがイエス・キリストを信じたときに起こることの一つは、神が聖霊の働きによって、私たちをこの世の他の人々とは異なる存在として、また同時にご自分にとって特別な存在として示されることです。「聖化」という英語は、sanctus(聖別された、聖なる、神聖な)とfacio(作る)という二つのラテン語に基づいています。このラテン語由来の言葉の背後には、ハグhagというギリシャ語の語源があります<註:英語のhug(抱擁)、hag(老婆)のどちらのことでもありません>。ギリシャ語の形容詞ハギオスhagiosは「神々に捧げられた、神聖な、聖なる」という意味です(今は「ブルーモスク」となっている有名な大聖堂ハギア・ソフィアをご存じでしょうか)。ハグhagの語源は、ギリシャ語の動詞ハゾマイ(hazomai)に関連しており、ハゾマイは「恐れる、畏れる、畏敬する」を意味します。つまり、ギリシャ語でハグと表現されるものは、通常、何らかの宗教的な禁止、呪い、守護下にあるということです。さらに、ハグは、通常の世俗的なものと異なっていた、ということです。これらの考え方は、聖書が私たちクリスチャンを「聖別された者」と表現していることにも共通しています。「ハグ(聖別)」され、聖められ、献げられることによって、御父は聖霊を通して、事実上、私たちに、この世の他のものとは異なるものとして、御自身のしるしをつけられたのです。聖別(神にとって「聖別」されること)は、信者に対する神の保護と、信者の積極的な身分の変化を意味します。私たちはもはや世俗的な人間ではありません。私たちは今や聖なる者なのです。そして神は、私たちがその役割を果たすことを期待しておられるのです: 

わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである(第一ペテロ1章16節)。 (参照:レビ記11章44,45節,19章2節20章7節) 

聖別(あるいは聖化)は、クリスチャンとしての私たちの新しい身分の一面です。この教義は、事実、私たちは神に関する限り、今や「聖なる者」でいる、ということです。「聖なる 」という言葉は、今日ではある種の好ましくない意味合いを含んでいるため、今まで<本シリーズにおいて>使用を避けていました。ペテロがこの2節で、私たちは聖霊の聖別(聖化)によって選ばれたと書いているのは、神が私たちを神の家族に選ばれる前に、まず私たちをこの世の他の者たちから引き離さなければならなかったということなのです。 

聖霊は私たちを「聖く」することによって、私たちを神の家族へと迎え入れてくださったのはその通りですが、聖書の言っている「聖さ」は多くの人が思い込んでいるようなものではありません。真の聖さについて、心に留めておくべきいくつか点があります: 

  1. 聖化は神の御業です: 最初の「聖さ」(聖化/聖別)は、父なる神が聖霊の働きを通して信者に与えるもので(私たちが取り上げている聖句、第一ペテロ1章2節)、完全に神の御業です!私たちはキリストを信じますが、この行為には何の努力もなく、称賛に値することでもありません。その結果、私たちが受ける「聖さ」は、聖霊によって管理されるものであり、善であれ悪であれ、私たちの側のどんな働きにも依りません。クリスチャンとして、私たちは神にとって 「聖なる」存在です。というのは、私達を世俗から分たれた存在で、ご自分の者として見なしておられるからです。それは私たちの行為によるものではありません!もし私たちがクリスチャンでなくて、「善い生活」を送っていれば、それによって神の目から見て「聖なる」存在になるというわけではありません。一方、クリスチャンとして、私たちの振る舞いが不完全であったとしても、神の目には「聖なる」者なのです(ただし、私達は神の道を踏み外した息子や娘に対する神の懲らしめの原則を覚えておくとよいでしょう: ヘブル12章1-13節) 
     
  2. 聖化はプロセスです: 神の計画には三つの異なる段階(第一段階:救い、第二段階:時間、第三段階:永遠)があるように、聖化にも対応する三つの段階があります。これまで、私たちは「第一段階の聖化」について論じてきました。クリスチャンになると、私たちは「神にとって聖なる者」となります(第一段階の聖化)。死後、私たちは神の御前で永遠に「聖なる者」あるいは「聖徒となります(黙示録20章9節)。しかし、時間(という次元)の中では、事態はもう少し難しいものです。この世界では、行動が問題となります。というのも、私たちが「立場上」(つまり、純粋にキリストを信じる者としての新しい身分の結果として)、神の仲介によって聖なる者となるのは事実ですが、クリスチャンになった瞬間に、すべての悪い習慣が即座になくなるわけではありません。信者である私たちは、同じ肉体(罪が内在している:ローマ7章20節)で生き続け、世は私たちを罪に誘惑し続けるでしょう(第一ヨハネ2章15-17節)。第二段階の聖化とは、私たちの行動が霊的成長と並行し、キリストにおける私たちの新しい身分と一致するようになる過程です。言い換えれば、救われたとき、私たちはキリストの兵士ですが、ベテランの兵士のように振る舞うようになるまでには時間がかかります。パウロはコリントの信徒への手紙(第一コリント1章2節)で、彼らを「イエス・キリストにあって聖別された者」(身分的聖化、第一段階の聖化)であり、「聖別された者となるように召された者」(その地位にふさわしい振る舞いをするという、神から与えられた目的を行うように召された者)であると述べています。霊的に成長し続けることによってのみ、あらゆる意味で聖なる者であれという神の命令を遂行することに成功することを望むことができるのです。 

    c. 聖化は内面的なものです:聖書的な真の聖さ(あるいは聖化)は、内面からしか生まれないということが、おそらく最も重要なポイントでしょう。神の御言葉や霊的成長とは別に、自分の行動を変えようとするだけでは、意味のある進歩は望めません。主イエス・キリストは、やがて世に残される信者たちのために御父に祈り、「真理によって聖別してください」(ヨハネ17章17節)と願われました。聖さへの真の進歩を達成する唯一の方法は、霊的成長であり、それは聖書の真理を受け入れ、信じ、適用することに基づいています。霊的成長については、今後のレッスンでもっと多くを語ることになるでしょうが、この時点でもう一度、基本的な仕組みについて記しておきます。このプロセスを定期的かつ一貫して続けることで、あなたは霊的に成長し、行動が変わっていきます。聖霊と聖句によって、客観的かつ個人的に、やってはいけないことをしている、あるいはやるべきことをやっていないと確信したとき、あなたが霊的に成熟していればしているほど、その変化は本物で効果的なものになります(言うまでもなく、長続きします)。そのような変化は、聖典の真実で正当な教えに基づくのが最善であり、純粋に社会的圧力や、他の個人や集団の特異な基準に由来する行動修正よりも、霊的観点からはるかに価値があります。 

    取り繕うのを避ける: 主はパリサイ派の人々を「白く塗られた墓」と呼ばれました。彼らの表していた「神聖さ」は表面的な神聖さに過ぎなかったからです。彼らは洗礼を受けるためにやってきました。彼らは神殿に行き、すべての宗教行事に熱心に参加しました。お金を捧げ、人前で説得力のある祈りを捧げました。彼らは自分たちが罪から遠ざかっていると感じていました。しかしイエスは感心されませんでした。パリサイ派の人々は真の聖さを示すことができないだけでなく、実際、神に対する真の信仰をまったく持っていませんでした。外見上は、傍目には白く清潔でした。しかし、内側はさまざまな汚れに満ちていました。神は私たちの内面に関心を寄せておられます。私たちの心が純粋であることを望んでおられます。もしそうなら、そして、もし私たちが神に罪を告白し、神の聖なる御言葉を受け入れ続けることによって、その心を清く保つよう熱心に努めるなら、私たちは内面的に霊的に成長し、この真の内面の変化は、私たちの人生にも現れずにはおれないのです。 

    –ペテロ#9に続く