ペテロの手紙 #3

神のご計画

ロバート・D・ルギンビル博士著

http://ichthys.com

復習と概要:

ペテロは、キリストの信者としてしばらく経つものの、自分たちの人生のための神のご計画と目的から逸れ始めていた小アジアのクリスチャンたちに手紙を書きました。個人的な苦しみや人生の複雑さが彼らの信仰を揺るがし、自分たちの問題を対処するには、神の恵みだけで十分であることを疑い始めていました。ペテロもまた、その人生で途方もない苦しみに直面していましたが、自分自身の不十分さを認識することによって、この苦しみが自分の霊的成長と奉仕を邪魔することのないようにしていました(彼の名前、Petrosペトロス<ギリシャ語>の意味は、本質的に「[神の御計画の中の][ただの]小さな一つの小石にすぎない」という意味です)。ペテロは自分に頼るのではなく、神の力に頼ることを選びました(第一ペテロ5章7節)。これこそ、神の祝福をもたらす真の謙遜の態度です(第一ペテロ5章5節)。小アジアのひどく気落ちした信徒たちに宛てた二通の手紙の中で、ペテロは当初からこの重要な教訓を教えようとしています。世間は成功を富や権力や名声で測り、あなたの病気、貧しさ、孤独、迫害などを、不名誉とみなすかもしれませんが、神は別の基準を持っておられます。神を信頼するクリスチャンこそ、真の成功者なのです。

第一ペテロ1:1-2の改訂訳:

イエス・キリストの使徒であるペテロから、父なる神の予知により、聖霊の聖別を受け、イエス・キリストの血の注ぎかけのもとに従順になるために、選ばれた人々、すなわちポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテニヤの各地に散らされ追放された人たちへ。あなたがたに恵みと平和が増し加わるように!

解説: 追放され、散らされた者であっても、選ばれた人達です: 私たちはすでに、初期のクリスチャンたちが自分たちの信仰のために耐えた追放や明らかな迫害について考えてきました。ペテロは、聴衆が経験している問題を軽視するのではなく、彼らの苦しみを認めています。ペテロは彼らをパレピデモイ(parepidemoi追放された者たち)と呼び、ギリシャ語で、よそ者や流浪の民を意味し(ヘブル11章13-16節参照)、さらにギリシャ語のディアスポラ(diaspora分散;しばしばこの音訳された言葉は、離散したイスラエルに使われる)という言葉を使って、彼らを散らされた国民に例えています。そう、ペテロは言っているのです。私たちクリスチャンは、この地上ではよそ者として、散らされて生きているのです。世から見れば、これは実に哀れな状態です。しかし、神にとっては、私たちは特別な存在であり、不敬虔な世界から聖なる者として選ばれた存在なのです。ここで使われているギリシャ語「エクレトスeklektos(選ばれた、選民)」とは、私たちがクリスチャンとしてこの世から「選び出された」こと、つまり、神の特別な所有物として永遠に神によって明白に選ばれたことを意味しています。そのため、主が私たちに警告されたように(ヨハネ15章18-19節)、私たちは世から敵対されても当然なことなのです。しかし、私たちはペテロの手紙の人々と同じように、神が私たちを選んでくださったのに、なぜ私たちはこの地上にとどまり、多くの場合、極度の苦しみに耐えているのだろうかという問いを持っているかもしれません。この問いに答えるためには、神の御計画と聖書が苦しみについて述べていることを考える必要があります。

神の計画:

1. 神の全体的な計画: 時の始まる前から、神は父、子、聖霊の三位一体で存在していました(創世記1章1節; ヨハネ8章58節)。私たちは聖書の様々な記述から、天地創造の以前の時点に、神がご自身の計画を立てられたことを知っています。そのご計画は、人間と天使のすべての歴史を描いています(詩篇33篇; イザヤ25章1節, 41章22-26節, 43章9節, 44章7-8節, 44章25-26節, 48章3節; エペソ1章11節, 3章11節)。それは、時の初めから終わりまで、どんなに微細な出来事であっても、すべての時間的出来事を含んでいるほど完全で完璧な計画です。神の全知全能、永遠性、無限性は、神が時間と空間を無限に超えているということです。それゆえ、宇宙におけるすべての活動を、すべての時間にわたって設計し、制御するという仕事は、私たちには気の遠くなるようなことですが、それも神の能力の範囲内にあります(私たちは、疑いの態度に陥るたびに、神の力を思い起こすべきです: 神にはできます。それが何であっても。)

  1. 神の目的: 神は完全です。神は何一つ得ることも失うこともできません。私たちから何も必要としません(使徒行伝17章25節)。イザヤ書は、神が私たちを創造されたのは「神の栄光のため」(イザヤ43章7節)であり、神の完全さ、神の義と善を現すためであると語っています。時間と空間、そしてそれらを支配する神の御計画はすべて、被造物である私たちのために造られたのであり(イザヤ45章18節)、私たちが神を知り、神を愛し、神の栄光を反映するようになるためなのです。これについては、「聖書の基本1:神学:神についての聖書的研究」をご覧ください。
  • 神の御計画: しかし、神の被造物すべてが(人間であれ天使であれ)神に仕えることを選ぶわけではないことを、私たちは知っています。植物が太陽の方を向くように、すべての人が自然に神に従うような宇宙を、神は造ろうとしたら簡単に造ることができました。その代わりに神は、神に仕える人々が自らの自由意志でそうすることを選ぶことを望まれたのです。神はその大いなる叡智において、被造物がまだ創造される前に、自由意志によって道徳的な行動をとることができる被造物を創造することを計画されたのです(エレミヤ1章5節)。神は「光あれ」(創世記1章3節)と言われる前に、御計画に従って歴史の流れを定め、被造物の自由意志を何ら損なうことなくそうされました: 神は、「私たちがそれをする前に、私たちが何をするか」を知るのに十分な知性(実際、全知全能)を持っておられ、これらの行動をご自身の御計画に組み入れるのに十分な力(実際、全能)を持っておられたのです。したがって、神が単に歴史に介入する能力を持っていると見なすべきではなく、神が夜明け前に起こるであろうすべての行動を認可し、創立されたと理解すべきです。
  • サタンの反乱 : 歴史は多くの不快なことで構成されています。歴史には邪悪なものがあります。悪は神からのものではありません。神によって造られた者が神の意志に反抗する自由意志に端を発しているのです。サタン(とその従者たち)は神に反抗し(イザヤ14章12節~; エゼキエル28章12-19節)、人間を罪に誘惑しました(創世記3章)。私たちの最初の両親は、自分たちの自由意志によって、神から離れました。しかし、神のご計画には最初からこのことが考慮に入れられてあり、御子イエス・キリストというお方とその救いの御業によって、人類が再び神に仕え従うことを選択する手段が備えられていました。だから、御父が御子と聖霊とともに歴史を定められたとき、それは気まぐれな行為ではなく、私たちの理解を超えた大きな犠牲を伴うものでした。神の御計画は、最終的に御子を受肉に至らせ、御父が御子を犠牲にされ、御子が激しい苦しみの生涯を受け入れ、私たち皆のために十字架上で死なれることを必要としたのです(ルカ24章25-27節; 使徒行伝2章23節, 3章18節, 7章52節, 10章37節, 17章3節, 26章23節; 第一ペテロ1章11節, 1章20節)。イエスに信仰を置くとき、私たちはこの神の憐れみの偉大な行為を認め、神の栄光を示すことになります(私たちはそのことのために造られました)。

2. 信者に対する神の計画の三つの段階: ローマ人への手紙8章で、パウロは神の全体的な御計画と個々の信者に対する具体的な御計画とを結びつける繋がりを図式的に描写しています。パウロは、私たちが「予知され」(永遠の過去において自由意志が考慮され)、「あらかじめ定められ」(神の計画全体に書き込まれ)、「召され」(キリストを信じる機会が与えられ)、「義とされ」(救われ、神の家族に入れられ)、「栄光を与えられ」(将来の復活が予見された)、永遠の過去から永遠の未来へと私たちを案内しています。このようにパウロは、私たちの人生が神のご計画の中でどのように位置づけられるのか、特にキリストを信じる私たち個人にとっての神のご計画には三つの段階があると考えるのが最も適切であることを説明しています:

  1. 救いに与る信者: 神は、イエスを信じるという単純な行為によって、すべての人が救われると言っておられます(ヨハネ1章12節, ヨハネ3章16節; エペソ2章4-9節; 第二テモテ1章9節)。予言され、召された私たちは、キリストを信じた時点で義とされます。
  • 時を生きる信仰者: 神は、救われた私たちが耐え忍ぶことを意図しておられます(第一ペテロ2章2節; ピリピ2章12節)。私たちは皆、始めたときと同じように、神のご計画の中に留まって歩み続けるべきです。私たちは神の真理(キリストを信じる信仰によって救われるという福音)を聞き、それを信じます。同じように、私たちは神の真理の全領域を吸収し、それを信じることによって成長します。信じることによって真理を保持するとき、真理は私たちを変え(ローマ12章1-2節)、私たちを霊的に成長させます。このような成長は内側から来るものであることを覚えておくことが大切です。人為的な制度や規則によって行動を束縛することによって成長するのではありません。とはいえ、真の霊的成長は行動に変化をもたらしますが、それは良い方向への変化です。神が望まれる重要な変化の一つは、すべてのクリスチャンが御計画の中で自分の役割を果たすようになることです(第一コリント12章12-31節; エペソ2章10節)。すべてのクリスチャンは、救われた時に何らかの霊的賜物を受けます(第一コリント12章11節)。しかし、真の実り豊かさは霊的成長の結果であり、決してその手段によるものではありません。キリストを信じた結果、神によって義と認められた私たちは、地上の生涯を通して義にかなった行いをすべきなのです。
  • 永遠における信仰者: この世が終わると、もはや涙はありません。古いものは過ぎ去ります(黙示録21章4節)。私たちは永遠に主と共にいるようになるでしょう(ローマ5章9-10節; 第一テサロニケ4章13-18節)、そして永遠の至福を待ち望むことができます(黙示録21章9節~22章5節)。そして究極的には、地上の肉体が復活し、主が約束された将来の栄光の状態に変えられるのです(第一コリント15章50-58節)。この世でキリストに忠実であった私たちは、主の再臨の時に復活によって栄光を受けるのです。

3. 神の御計画とあなた: 神はあなたのために計画を持っておられ、あなただけの目的を持っておられます。神は、あなたが存在するはるか昔、永遠の昔からあなたを知っておられました。あなたに対するその愛は大きくて、神は御自分のひとり子さえ十字架につけて死なす覚悟をされました。あなたが神に立ち返る以前に、神はあなたのためにこのことをしてくださったのです。今、信じているあなたのためには、なおさら神はあなたが必要としているすべてのものを与えてくださらないことがあるでしょうか(ローマ5章6-11節)。神は、あなたが直面している一目瞭然の苦労も、あなたのひそかな心の中の痛みと苦しみも、どちらの問題も知っておられます。神はこのすべての必要に十分に応えることのできる方です。永遠には問題というものはありません。悪魔の世界の真っただ中のこの時間の中においてこそ、神はこれらの事柄において、あなたに対するご自身の誠実さを実証される機会を持っておられるのです。あなたは、ただ時間の中にあって、主があなたのことを気にかけてくださり、あなたのすべての必要に対して何らかの答えを与えてくださるという固い信念の下で主の愛に応え、信仰をもって、あなたに立ちはだかる逆境に立ち向かうことができる機会を持っているのです。永遠において、主が見ておられるように、私たちもすべてをはっきりと見ることができます(第一コリント13章12節)が、この世にいる限り、私たちの視野は限られています。地上の目に映るものによってではなく、この地上では唯一の信頼できる真理の源である神の御言葉から真実であると知り、信じているものに頼って、信仰によって前進しなければならないのです(第二コリント5章7節; ヘブル11章1節)。

さらに詳細に学びたい方は以下のリンクにアクセスして下さい<日本語ではまだありません。以下のリンクは英語です>

Free-Will Faith in the Plan of God.

Our Eternal Future: Life after Death for Believers in Jesus Christ.

Free-Will Faith and the Will of God.

Faith: What is it?

Free-Will Faith.

要約: この世の「目」からは、第一ペテロの手紙の対象者は失敗者と見なされ、彼ら自身、そうした見解を受け入れてしまい、「神よ、いったいどうしてなのですか?」と疑問を持つようになりました。ペテロは彼らに、この世の目から見れば自分たちが確かに無価値であっても、本当に重要な唯一のお方、すなわちこの世の創造主であり救い主であるお方にとっては、彼らは最も重要な存在であると答えているのです。銀河の進路や砂浜の砂粒の配置を計画できる神は、きっとあなたの問題も扱うことができます。神は、あなたの世話をする能力を持っておられ、またあなたを世話したいと望んでおられ、実際、あなたの生涯を通してあなたを忠実に牧してこられました。私たちは、これらのことを思い出して励ましを得、霊的に成長し続けることによって、主の御計画やり抜く必要があります。ペテロの時代の苦難に満ちた信徒たちが問いかけていた質問の最初の部分に答えるなら、私たちがこの世にいるのは、自分の人生に対する神のご計画を果たすためなのです。この世のすべてのものが一過性のものであるのとは対照的に(第一コリント3章10-15節)、私たちの側の忠実さは、決して衰えることのない永遠の祝福と報いをもたらします(第二コリント4章17節)。霊的成長において苦しみが果たす重要な役割については、次回の学びで検証することにしましょう。

http://ichthys.com