癒しについて-パート1

<質問と答えの「神は癒される」、他から抜粋-パート1>

https://ichthys.com/mail-God-Heals-in-His-way.htm

God Heals – in His way (not our way)

神はいやされる ― 神の方法で(私たちの方法ではなく)

Word RTF

質問 #1:

親愛なるボブへ、

いやしについての質問です。

(4)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 (5)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ53章4-5節)

(24)さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 (第一ペテロ2章24節)

上記の聖句は、病気からの肉体的な癒しを受けるために、クリスチャンによって最もよく用いられるものです。救われた人々のあいだには、この聖句に信仰を置きながらも、望んでいた癒しを受けていない多くの病人がいることは、広く知られています。

イエスは、救われた者が永遠のいのちを持つために、すなわち霊的な癒しのために、罪の代価を完全に支払われました。「癒された」という語は、ヘブル語とギリシヤ語のどちらにおいても、霊的または肉体的な癒しのどちらをも表します。これらの節のより深い意味は、肉体的というよりは、人類の霊的な癒しを指していると解釈することもできます。多くの説教者はさらに一歩進み、これは霊的癒しと肉体的癒しの両方を意味するのだから、救われた者は癒されるべきだと言います。この文脈において、真のクリスチャンの視点とは何であるべきでしょうか。

祝福を。

返信 #1:

またお聞きできてうれしく思います、友よ。

私はあなたの見解にまったく同意します。私の見るところでは、この二つの箇所はどちらも霊的な意味で語られており、私たちの真の問題である罪深さを癒すものです。肉体の病は人類の堕落の結果であり、私たちの体に宿る罪のしるしです。ですから、イザヤ書のこの箇所にあることをイエスが肉体的に成就されたことは、十字架での罪の贖いが来ようとしていることの象徴でした。そしてその贖いによって、この箇所は霊的な意味で完全に成就され、世界の罪が取り除かれるのです。

現代の「牧師たち」についてですが、私がよく言うように、神はご自分が望まれるどの信者にも、癒しの賜物を含め、どんな霊的賜物でもお与えになることができます。また神は、望まれるときには、誰でも癒すことがおできになります。問題が生じるのは、神がその人に癒しの賜物を与えていないのに、その人がそれを持っていると主張する場合、あるいは神がある人を癒すことを選ばれていないのに、その人が癒されたと主張する場合、または人が癒しを祈り求めたり、癒すことができると主張する者のところへ行ったりして、癒されなかったときに落胆してしまう場合です(その時点ではそれが神のみこころではない場合に)。

これらの事柄について私が学んできたところでは、神が今、癒しの賜物を与えておられるようには見えませんし、使徒職の賜物や異言の賜物や、その他多くの「しるしの賜物」も同様であり、これらは新約時代の第一世代を特徴づけていたものです。そうであることには、とても良い理由があります。私たちは今、完成した聖書を持っているからです。しかし、私たちが特別な賜物を持つ人々や、劇的な体験や「必要に応じた」奇跡に目を向ける程度に応じて、その同じ程度だけ、私たちはおそらく真理のことばに目を向けなくなるでしょう。しかし、信者が霊的に成長し、この生涯において主が彼らに与えておられる目的を果たすことができるのは、真理を学び、信じ、適用することを通してのみです。

私たちはラオデキヤの時代に生きており、生ぬるさが当たり前になっています。今日のクリスチャンは、実際の霊的成長に伴う骨の折れる働きをするよりも、娯楽や体験に関心を向けがちです。そのため、偽教師たちにとっては、肥えた畑が目の前にあるようなものです。特に過去数世紀にわたって人々がよくひっかかってきた欺きの一つは、「信仰による癒し」に関するものです。というのも、完璧に健康である人はほとんどおらず、したがってほぼすべてのクリスチャンはこの領域に何らかの「必要」を抱えており、その結果、その必要を満たすことができると主張する「敬虔そうに見える」人物に対して、ある程度の弱さを持ってしまうからです。人々は健康上の問題を解決するために多くを犠牲にします。そのため、「癒しのミニストリー」は、多くのほかのこと以上に、だまされやすいクリスチャンから忠誠と支持、そして最も重要なことに金銭を集めることができます。そうしたクリスチャンは、欺きを見抜き誘惑を退けるほどには霊的に成長していないのです。

こうした理由から、私がそのような「ミニストリー」について聞くとき、いつも最初に問うのは「代価は何か?」ということです。当の人物が 1)来る者すべてを癒している、2)無料で癒している、3)寄付を受け取っていない、4)いかなる種類の忠誠や出席や会員資格も要求していない、つまりイエスが癒されたと同じように癒している、というのでない限り、癒しが本物で正当なものかどうかを次に問う必要すらありません(なぜなら、イエスが癒されたのと同じように癒していないのであれば、実際の癒しは起きていないからです)。

以下はいくつかのリンクで、この事や似た事柄について論じています。

イザヤ53章5節で語られている「癒し」とは?
Faith healing 信仰による癒し
The Gift of healing 癒しの賜物
Healing, Miracles, and Dreams: Sorting the Wheat from the Chaff by biblical Means 癒し・奇跡・夢──麦と殻を聖書的な方法でより分けること
“Greater things” and 1st Corinthians 3:8 「さらに大いなること」と第一コリント3章8節

世の罪を取り除くために死なれた、私たちの愛する主イエス・キリストのうちに。

ボブ・L.

質問 #2:

親愛なるボブ教授へ、

いやしに関する以下の質問について、あなたのとても貴重な時間をいただいて助言を受けられることを、私は特権だと思っています。

そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 (マルコ 11章24節)

私は、病気の人たちがこう助言されるのを見てきました──自分は病気だと言ってはならず、上の聖句を引用して、自分は癒されていると言いなさい、と。そうすることで、病人は癒しを期待して「みことば」に従っているのだと言われます。私は、もし病気の人(例えばガン患者)が、自分は癒されていると言うなら、うそをつくことになり、それは罪を犯していると思います。一方で、そう言った人たちが望んでいた癒しを受けたのを私は見たことがありません。私は、イエスがここで意味しておられるのは、信仰のうちにあることであり、神がご自分の御心のときに神の癒しを与えてくださる、ということだと思います。

あなたの見解を感謝します。

祝福を。

返信 #2:

またお聞きできてうれしく思います、兄弟よ。

あなたがここで言っていることは、特に「神の御心のときに」と言われた点において、きわめて理にかなっていると私は思います。というのも、神の御心にかなったことを求めるときにこそ、その祈りは答えられるからです。

わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。 (第一ヨハネ5章14節)

結局のところ、例えば私たちが「好ましくないこと」を祈ったとして──好きではない町の全員が風邪をひくようにとか、もっと悪いこととか、あるいは不可能なこと──世界中の草が緑ではなく赤に変わるように、などという祈りが、祈ったとおりに正確に答えられると合理的に期待する人が一人でもいるでしょうか。明らかに、イエスが意味しておられるのはそのようなことではありません。イエスが言及しておられるのは、実際に神の御心にかなっている事柄に対する正当な祈りです。そして、私たちが祈ったことが、私たちが述べたとおり、描いたとおり、そして私たちが選んだ時と場所に正確に答えられるとは、イエスは注意深く言っておられません。神はすべてのことを益となるように働かせておられ、私たちのすべての祈りは、神のご計画と神の御心という全体的な原則のもとで考慮されています。

彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。(ピリピ2章27節)

…トロピモは病気なので、ミレトに残してきた。 (第二テモテ4章20節後半)

そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である…(第二コリント12章7-9節後半)

これら三つの箇所は、最大の使徒であるパウロの経験に関わるもので、この点について少なからず明らかにしています。最初の箇所では、エパフロディトスは癒されましたが、それは彼が死にかけるほど重病になった後のことでした──ですから、この癒しが祈りへの応答であったとしても、それは即時的でも、信仰療法者たちが主張するような公然たる奇跡的癒しでもありませんでした。二つ目の箇所では、親しい友人で旅の同行者であったトロピモ(使徒言行録20章4節21章29節参照)が、パウロが第二の投獄でローマへ向かう旅に続けなくなるほど重病でした──つまり、かつて癒しの賜物を持ち、なお疑いようのない使徒としての権威を持っていた者でさえ、祈りによっても個人的な癒しによっても、望んだ結果を常に実現できたわけではありませんでした(とはいえ、信仰療法者たちはパウロ以上の力を主張しています)。三つ目の箇所では、これまでにもこれからも誰よりもイエスのために働いたパウロが、悪霊に由来する病によって弱められ妨げられ、癒されるよう三度も祈ったことが描かれています。しかし、主が説明されパウロが報告している理由によって、これは神の御心ではありませんでした(それにもかかわらず、信仰療法者たちはこのような例外を一切認めません)。もしパウロの他人の癒しのための祈りが、常に即時に、あるいは(この賜物の力がもう与えられていなかった時点では)まったく答えられなかったことがあり、また、自身が驚くほど忠実に使命を果たしていた場合でさえそうであったのなら、自分たちはそれ以上の力を持つと主張する人々は、聖書によれば、神が御心にかなうときには奇跡的かつ即時に癒されることを認めざるを得ないはずです。しかし、そのような結果が祈りへの応答としていつでも起こるわけではありません。私たちの場合と同じように、パウロに対しても、神はいつも彼の祈りに答えられました──ただし、私たちの限られた人間的視点で予想する形とは限りませんでした。祈りを通して私たちは山を動かすことができます──しかし文字通りの山が動くのは、それが神の御心である場合に限ります。この点についての詳細は、「山を動かす-マタイ21章21節の信仰」をご覧ください。

イエス・キリストにあるあなたへ。私たちはこの方の御名によって祈りますが、そのとき私たちの祈りがすべて聞かれており、すべてが益となるように働くために、まさに正しい方法で答えられることを、絶対的な確信をもって知っています(たとえその答えが、私たちが予想した形とはいつも一致しないとしても)。

ボブ・L.

「癒し・奇跡・夢――聖書的基準によって麦と殻を見分ける」

https://ichthys.com/mail-Healing-Miracles-Dreams.htm#the%20perfect%20in%201st%20Corinthians%2013%20and%20cessation%20of%20sign%20gifts

Healing, Miracles, and Dreams: Sorting the Wheat from the Chaff by biblical Means

質問 #1

親愛なる Bob L. へ

私は終末についての教えを求めていた際に、初めて Ichthys のウェブサイトにたどり着きました。あなたの教えには大変感銘を受けました――しかし……信仰による癒しについてのご見解を読むまでは、です。

私なりに要約しますと(私の言葉ですが)、あなたは、癒しの奇跡は初代教会の時代には起こっていたが、今は起こっておらず、終わりの時代には再び起こるかもしれない、と考えておられるように思いました。テレビで見られるような「見世物的な信仰治癒ショー」には私も心を痛めていますが、それでもなお、この点に関しては、あなたは明確に間違っておられると言わざるを得ません。1973年、メキシコ南部での宣教活動中、私は友人とともにオアハカ市の南にある小さな村で人々のために祈っていました。生まれつき盲目の男性が前に出てきたので、私たちは彼に手を置いて祈りました。すると彼は(スペイン語で)「光が見える、光が見える!」と叫び始めました。彼の妻は泣きながら、「彼は一度も見えたことがなかったのです。生まれつき盲目だったのです!」と言っていました。彼は再び前に来て、私たちはもう一度祈りました。すると彼の視力はさらに回復し、最終的には、私よりもよく見えるようになったのです。私はこのような規模の奇跡を人生で何度も見たわけではありません。しかし、はっきり申し上げます。奇跡は、今でも起こっています。

ヒューストン・ファースト・バプテスト教会の元主任牧師であるジョン・R・ビザーニョ博士も、インドで同様の体験をされています。彼もあなたと同様、癒しは別の時代のものであると信じていましたが、ある日、先住民に説教をしている最中に、肉体的な癒しのために祈ってほしいと頼まれました。彼は好意としてそれに応じましたが、実際に何人かが奇跡的に癒されたことに驚愕しました。それ以来、彼は変えられた人になったのです。

どうか、もう少し調べてみてください。そうすれば、他にも多くの実例が見つかると私は信じています。なぜ今日、癒しがもっと起こらないのかは分かりません。しかし、起こっているという事実だけは、どうか知ってください。

敬具

(署名)

返信 #1

お便りありがとうございます。まず初めに、温かいお言葉に感謝いたします。そして、ある一点での見解の相違が、他のすべての点における交わりの断絶につながらないことを、心より願っています。この Ichthys というミニストリーは、キリスト教教理の全領域を教え、取り扱うことを目的としています。そのため、誰に対しても何らかの点で違和感を与えずに済む可能性は、ほとんど天文学的に低いと言わざるを得ません(そして私自身も、長年の中で、受け入れるのに非常に抵抗を感じながらも、真実であると認めざるを得なかった事柄が多くありました)。

あなたのおっしゃっていることは理解していますし、この種のお話はこれまでも何度も耳にしてきました。こうした場合、私が常に申し上げていることですが、あなたが実際に体験されたことについて、私がそれを否定する立場にあるとは思っていません。また同時に、神に不可能なことは何一つないとも、私はいつも強調しています。癒しを必要としている人のために奇跡的な癒しを祈ることを、私は決してためらいませんし、実際、日常的にそうしています。そして神がその祈りに答えられるとしても、何ら不思議に思いません。神は神であり、不可能なことはなく、私たちはすべての必要について粘り強く祈るよう命じられているからです。

私が問題としているのは、「癒しの賜物」という考え方です。聖書の記述と新約聖書の教理から見て、それは使徒職の賜物の一つであり、使徒職そのものとともに終息したものである、と私は考えています。なぜなら、もし誰かが本当に癒しの賜物を持っているなら、その人はいつでも、どこでも癒すことができるはずだからです。教える賜物を持つ人が一度しか教えないということがないように、真の霊的賜物であるなら、それはその人の霊的ミニストリーの中心となるはずです。あなたが述べられた出来事がかなり昔のものであることから、あなたご自身が癒しの賜物を持っていると主張しておられるわけではないと理解しています。そうであれば、この点に関して、実はあなたの教理的理解と私の理解との間に、本質的な食い違いはないのではないか、というのが私の見解です。

確かに私は、多くの信者よりも慎重で、懐疑的な表現を用いる傾向があります。しかし、それが私の務めだからです。あなたもメールの中で、今日の教会において「テレビで見られる信仰治癒の見世物ショー」が大きな問題であることを認めておられます。実際、この種の欺瞞は多くのクリスチャンに深刻な害を与え、経済的にも、霊的成長においても、さらには信仰そのものにおいても、打撃を与えてきました。しかも、明らかに虚偽である癒しの主張が横行しているにもかかわらず、それに対して疑問を呈する真にキリスト教的な声はほとんどありません。その現状を踏まえるなら、私自身の比較的穏やかな警告の言葉を控えるべきだとは、到底思えません。兄弟姉妹の霊的福祉のために、私たちは主の言葉どおり、「蛇のように賢く、鳩のように素直」であるべきです。特に、急速に近づいている終末においては、獣がまさにこの偽りの奇跡を用いて多くのクリスチャンを惑わすと預言されているからです。

では、何を言うべきでしょうか。

神はすべてを成し得るお方であること。神は癒されるお方であること。私たちは神を信頼し、神を信じていること。そして、私たちは神が求められるなら、どのようなことでも成し得るお方であると疑っていないこと。

しかし同時に、人間――たとえ善意に満ちた人であっても――は神ではなく、その言葉が聖書と同等の権威を持つわけでもありません。したがって、第三者による証言については、たとえ神を賛美しつつも、自分自身が直接確認していないものを無条件に信じることはすべきではありませんし、たとえ自分の目や耳で見聞きしたことであっても、聖書と少しでも矛盾する兆しがあるなら、それすらも疑うべきだと私は考えています。 (参照リンク: “Third party reports”“Scripture versus Personal Experience”, “more on third party reports”).

テキサス州のある小さな食料品店の看板に、こう書かれていました。

「神は信用する。他は現金払い。」私たちはあらゆることにおいて神を信頼します。しかし、よく知らない人々が見た・聞いたと主張することについては、判断を保留します――聖書に基づく霊的な慎重さと正当な理由をもってそうするのです。

私たちの愛する主であり救い主であるイエス・キリストにあって。

Bob L.