旅 ―生きる目的と真理を探し求めて
青森から津軽を経ての北海道への道は、私にとって、決して忘れることのできない思い出深い道です。
私は高校の時、人生の意味、目的が何であるか探し求めて家出をして、津軽海峡を渡り、徒歩で函館から室蘭まで旅をしたことがあります。学校では生徒会長もしていましたが、陰では万引きをしていたり、心はとても荒んでいて、よく憤慨していましたが、自分が何に憤慨していたのかもわかりませんでした。暗闇から脱したい、また救い出されたい、しかし、どこに手がかりがあるのか、答えはどこにあるのかわかりませんでした。
次第に、私の心にある、混沌とした思いは、一体、私は何のために生きているのか?生きるとはどういうことなのかという疑問に凝縮されていきました。
「人は何のために生きているのか」、という私の質問に、親も学校の先生も友人も、誰ひとり、答えてくれる人はいませんでした。図書館の本を読みあさってもみましたが、私には本を書いている人自身が答えを持っているようには思えず、私を納得させることはできませんでした。
私は男三人兄弟の長男で、とても貧しい家庭で育ちました。母はいつも小さい畑を一生懸命耕し、野菜を作っていました。父は鉱山で働いており、酒を飲んでは、「お前は大きな会社に勤めれ。そうしたらお金がたくさんもらえるぞ」と口癖のように言っていました。
しかし私は、父の言っていることを受け入れることができませんでした。父は、毎日のように酒に溺れて、よく母や私たち子どもに暴力を振るったものです。私はただ、父さえ、酔っぱらわず暴力をふるわないでいてくれたら、幸せになれると思ったものです。そして自分は、絶対に父のようにはなるまいと決意しました。ですから、お金があれば幸せになるぞ、という父の言葉とは反対のところに真理が、そして幸せがあるのではないかと思っていたのです。たとえそうでなくても父への反抗心のゆえに、私は父の言った反対の道を歩みたいと思っていました。そして、私は旅をすればもしかしたら、その答えを見つけられるかもしれないと思い、家出をすることにしたのです。
家出の日、親には、友達と一緒に勉強すると嘘を言って家を出ました。今、思うと、どれだけ親や周りの人たちに心配をかけたかしれません。特に母親の心をどれだけ悲しませたかを思うと、済まないことをしたと思います。しかし、その時には、ただ、人生の意味と目的を知りたくて、矢も盾もたまらなかったのです。
この家出の旅は、先生やクラスメイトに会わないように、高校の最寄り駅の一つ手前の駅で降り、線路伝いに歩くことから始まりました。秋田の田舎で、列車はあまり走っていなかったので、線路の枕木を踏みながらこんなことを自分に言い聞かせながら歩いていました。
「私は学生の身だ。つまり、学ぶことが今の私の仕事だ。しかし、人生は何のためにあるのかということを知らずして、何を学ぶというのか? 人生の目的を知ることこそ、まず見出さなければならないことではないか?」
北海道に渡った私は、函館でまず一ヶ月ほどバイトした後、函館から室蘭まで歩きました。バイトで知り合った岩手県からやってきていた私よりも一才年上の青年が、私のことを心配して、一緒に歩いてくれました。
細かいことはあまり覚えていないのですが、その旅の経験で、今もとても印象に強く残っている場面があります。函館から歩いてきて大沼にぶつかった時のことです。道路が大沼をはさんで右と左に別れていました。私は、どっちに行ったらいいかわかりませんでした。その時、誰も自分にどちらを行くべきだと告げてくれる人はいないことに気づきました。私はそれまで、いつも、こうすべきだ、ああすべきだと誰かに教えられた通りに生きてきましたが、これからは自分で自分の人生において選択して行くのだ、という大きな発見をしたのでした。そして自分の選んだことの結果を自分で刈り取るようになるということも。
しかし、その決断を導いてくださる方がおられることには、まだその時は気づいていませんでした。
私たちは、普通の運動靴を履いていましたので、足はすぐ豆だらけになりました。背中には、30キロくらいの荷物を背負っており、毎日歩き続けて、へとへとになったのを覚えています。
ある晩、長万部あたりで、テントを張って眠りました。その翌朝、不思議な体験をしま
した。今迄何度も見ていた朝日が、その日はなぜか、まるで意志をもっているかのよう
に、私の体ばかりでなく、魂の髄まで慰め暖めてくれるような、特別なものに感じられた
のです。自分は何か偉大なカによって包まれ愛されている、こんな私を受け入れてくれる大きな深い愛がある。自分は、その愛なるものに、朝ごとにカを与えられているといった、不思議な思いを感じたのです。海も何かを物語るかのようにキラキラ光っていました。暗い私の心に希望の光が差し込んだ瞬間でした。
その後、室蘭まで歩きました。
私たちのよたよた歩いている姿を車で見かけた人が、その晩泊めてくれました。そこで、泊めてくれた人と話したりしている内に、私は、ふと、もしかしたら大学に行けば、そこで答えが見つけられるかもしれないと思い、翌日室蘭から出ているフェリーに乗って本州に帰りました。
その後、私は大学に進みました。大学で、聖書研究部というのがあり、絶望してあがいている私に、聖書を丁寧に教えてくれる人に出会いました。聖書を読んでみて、私は、あの長万部の海岸で体験した暖かいもの、自分を受け入れてくれる偉大なる力が何であったかわかったのです。
聖書には、次のような言葉があります。
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる。(マタイ5章45節)
私は自分のことしか考えていませんでした。親や弟たち、また学校の先生や友人たちの気持ちなど、ほとんど考えていませんでしたし、あの徒歩の旅で、わざわざ函館から室蘭まで、私を心配し、同伴し付き添ってくれた人の気持ちも全く気にかけてもいませんでした。聖書を読むにつれ、如何に自分が自己中心であり、罪深い者であるかということに気づかされました。そしてこんな私であるにも拘わらず、暖かく包んでくれるそんな愛があるということ、そして神がその愛なる方であるとわかったのです。
その時から、私の人生は変わりました。それは私の人生にとっての最大の転換期になったのです。
心のふるさと
あれは幻だったのかと思うことがあります。
私は子ども時代、父が鉱山で働いていたので、その社宅である長屋で暮らしていました。小さな玄関と二間の部屋からなる住まいが、薄い壁で仕切られ、たしか八世帯くらいで一棟となっていました。トイレ棟が離れにあり、お風呂は男女に分かれた共同風呂でした。台所は部屋にありましたが、水道が引かれていたわけでもなく、二棟の長屋の真ん中辺りにある、手押しポンプの流しを皆で使っていました。そこに十数家族の人たちが野菜を洗いに来たり、水を汲みに来るのです。そこにはちょっとした広さがあり、夜には仕事を終えた人たちが、いろんな話をするために集まって賑やかなものでした。
冬の暖房に使う薪木のことや、また水道を引く工事の話し合いも、井戸端会議ならぬポンプ端会議でなされていました。春の花見や秋の紅葉狩りの計画も、そこの長屋のみんなで話し合われたものです。
両親が出かけて遅くなった時には、当時小学生だった私は、隣の人の所で夕食をさせてもらって親が帰るのを待っていたり、誰かが高校に合格した時には、長屋中の皆が喜んだものでした。また親方と呼ばれた人の所では、両親が仕事以外のことでも色々と相談に乗ってもらったりしていたのも覚えています。鉱山の鉱石が採れなくなって「首切り」(解雇)が始まった時には、親方が、わたし達小さな子ども三人を抱えている父と母を不憫に思って、会社に何度も、猶予してくれるように掛け合ってくれたという話を聞いたこともあります。そうしたおかげで父は閉山ぎりぎりまで、慣れた仕事をし続けることができました。
皆が一つの家族のように、いつも助け合い、苦楽を共にしていました。
酒乱の父のためにつらい思いもした子ども時代ですが、そんな中でも、いたわり合いや助け合うことを、こうした暖かい隣近所の人たちの生き方から教えてもらっていたように思います。
昔は日本のどこにでも、このような人々の結びつきがたくさんあったのだと思いますが、あれから四〇年以上が過ぎ、日本の社会は目まぐるしく変わって来ました。便利さとスピードと物質的豊かさを求め続けて発展した現代の社会では、あの長屋のような暖かい人と人との結びつきなどは、なかなか見つけることができません。
今、あの当時を思い出してみると、私が共に暮らしていた長屋の人たちは、まったく別人種だったのか、あるいは幻だったのかと思わずにはいられません。
あの長屋での暮らしは決して裕福でも便利でもなかったけれど、今の世の中が失ってしまった愛や暖かさが日常にあふれていました。
もちろん私の家族だけでなく、それぞれの家族が色々な問題を抱えていて、愛において完全であったわけではありませんが……。
古き良き時代の、日本の人情は何故、あまり見られなくなったのでしょう?
日本全体が貧しかった時代には、物の豊かさこそが幸せをもたらしてくれると思い込みやすかったのかも知れません。そしてそれを必死に求め続けた結果、気づかぬ内に自分たちが持っていた良いものを、代価として失ってしまったのでしょう。
しかし、豊かな物に囲まれた現代に生きる私たちには、何が人間にとって本当に大切なものであるのか、見ようと思えば見ることができるようにしていただいているように思えます。モノはモノでしかない。私達の真の必要は、モノが満たしてくれる以上のものであるということを、この過去半世紀にわたって、日本人は体験してきたのではないでしょうか。
被災のもたらした人生の課題
先ほど、たまたま妻が見ていたテレビ番組に、私も引き込まれるように見入ってしまいました。ちょうど自分が何度も足を運んだ、被災地のある中学校の生徒達が映し出されていました。私が知っている生徒ではなかったのですが、彼らと同じような年齢の子どもたちと触れ合った事があるので、彼らの話から、気持ちをいくらかでも感じ取ることができました。この番組を制作してくれた人達に感謝です。
「いのちって何だろう?」
学校で、こうした課題に真っ向から向き合うことができたのはすごいことだと思いました。幾人もの子ども達が自分の親や兄弟、そして家を失いました。そしてある人は、自分の目の前で命を落とした家族が、何度も夢に現れ、助けることのできなかった自分を責めたりしていたのです。またある女の子の生徒は、被災で家族を失ったわけではないけれど、自死を考えていた自分の心の内を分け合っていました。
先生と、そして生徒皆と一緒になって考え、悩み、そして助け合う…。これは、被災という試練から生まれた美しい花だと思います。そうした経験があったからこそ、人間が一番向き合わなければならなかった「人はどうして生きているのか?いのちって何だろう?」ということに、真剣に向き合うことができたのです。素晴らしいと思いました。
私たちも幾度となく、人生の試練の波に襲われることがあります。しかし、もし人生に何の試練もないのなら、「人はどうして、何のために生きるのだろう?」という課題に真っ向から向き合うこともないでしょう。ですから、試練は人生の目的を探し始める尊いチャンスの時なのだと思います。
震われない国を待ち望んで (東北大震災のあった2011年春)
余震が毎日のように続いています。
そしてその度に、原発はどんな状態なのか、また日本各地の交通や家屋の被害状況が報道されています。
自分の立っている地面が震え揺らぐことは、怖いことです。特に、いつまた揺れるか、また何が起るかわからないと思うと、なおさら不安で落ち着いていることができません。
聖書にも、神がイスラエルの民の前でシナイ山を震わせた時、民もモーセも怯え震えたことが記されており、今の私たちと当時のイスラエルの民の心境は、少し似ているのかもしれません。
シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。(出エジプト19章14節)
その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、『わたしは恐ろしさのあまり、おののいている』と言ったほどである。(ヘブル12章21節)
ところで、同じ災害でも、来るぞと身構えているところにやってくるのと、不意に襲われるのとでは、被害の程度もまた驚きの程度も異なると思います。例えば、地震体験車というものがありますが、その中で、「さあ、震動を始めます」と言われて身構えている時に揺さぶられるのと、何も知らずに揺さぶられるのとでは、パニック度も違ってくることでしょう。
つまり揺れは同じでも、揺さぶられる理由や時を知っているかいないかによって、心理的に大きな違いが生じるのです。
実は聖書には、この地は、揺さぶられることになっていることと、その理由も書かれています。
…揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。(ヘブル12章27節 新共同訳)
私たちは、目に見える造られたものというのは、触れることができ、所有できて、あてにできる確かなものと思いがちです。しかし逆に言えば、形あるもの、目に見える形で存在しているものは、震われるものでもあります。なぜ、形あるもの、目に見えるものを神様が震われるかというと、それは、いつしか取り除かれるものであり、永遠に続かないものだということを、私たちに教えるためなのではないでしょうか?それによって神は、私たちに、確かで震われないものに目を向けさせようとしておられるのです。
聖書には、震われない確かなものについても記されています。
天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることはない。(マタイ 24章35節)
世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。(第一ヨハネ2章17節)
いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(第一コリント13章13節)
だから神の御旨を行う愛の国こそ、永遠に続く震われることのない国なのです。 イエス様は、私たちをその愛の国の一員とするために、この世に来て下さいました。そして私たちの罪を赦すために、その代価として血を流して下さったのです。(ヘブル12章24節)
この揺さぶられることの中に、神様の意図を見るなら、真の平安へと私たちはもう少し近づけるのではないかと思います。
このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。(ヘブル12章28節)
イエスの言う「神の国」こそ、「震われない国」です。この国はいつまでも存続します。そしてその国の民となるには、聖くなる必要あります。「すべての人は罪をおかした」と聖書にはありますが、聖書で言う罪とは、神の御心を外した思いや行為のことです。そしてその罪は、人を神から遠ざけてしまっているのです。
しかし、十字架で流されたイエス様の血は、私たちを神の国の民として回復させてくださいました。神の国は、神の統治による国、つまり神の御心を行う者たちによって造りあげられるものであり、それは愛に基づいた国なのです。そして、それこそが震われない唯一の国なのです。
ゆるしの力
御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
(第一ヨハネ1章7節)
また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。
(黙示録 1章5~6節)
父が酸素テントの中に入れられた時、もう持たないだろうということで、親族が呼ばれたことがありました。
私がそこに駆けつけた時、家族が父の周りを取り囲んでいました。
そして、母が私が来たことを父に伝えると、父のもうろうとしていた意識が突然はっきりし、父は起き上がって、私の名前を呼び、「赦してくれ」 と一言、大きな声で言ったのです。
父が死を前にして、自分がひどい父親であったことを後悔したのでしょう。(父は酒乱で、母も私たち子どもも、随分つらい時を過ごしました)
私はそんな父に、「父さん、もちろんだよ。赦すよ」と言いました。そして父のために祈りました。
その時、私にはわかったのです。父は、赦してもらう必要があったのです。そして私の心に超自然的な確信が与えられました。「父は生きる」、と。
瀕死の父をあとにして、私が帰ろうとすると、弟たちは驚いて、「葬式はどうする?」と尋ねました。私は「必要ないよ。死なないから」と答えました。
実際、父はそれから奇跡的に回復し、その後すぐに退院し、自分の好きな山歩きを始めたのでした。
私たちは、父のように、まだ赦されていないと思っているものをどこかに持っているかのかもしれません。
主は、私たちすべての者の罪を赦されました。イエスが代価を払ってくれたのです。聖書には、はっきりと書かれています。
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
(エペソ1章7節)
もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
(第一ヨハネ1章9節)
聖書の「罪の支払う報酬は死である」という言葉に接すると、正直な人間なら、自分の罪深さを実感し、自分は死に値しても当然と思うことでしょう。
人が簡単に自分のことで落胆してしまうのは、自分の間違いや罪深さを思い、心の底で自分を非難しているからなのかも知れません。
キリストの恵みによって、すべての罪が赦されているとわかるには、主によって、霊の目を開いて頂く必要があります。そうでないと、罪の重荷を自分で背負うことになります。そして完璧になろうとしたり、償おうとして苦労し、疲れ果てることになるのです。
実は、イエスがその罪の代価を全部、御自分の血によってすでに支払われたというのに。
イエスは、私たちに自由をもたらすために死んでくださいました。私たちが喜びで満ちあふれる人生を送れるようにと、ご自分の命を差しだして、十字架の死の苦しみを通過してくださったのです。
どうか私たちが、キリストの死を無駄にすることのないように、自分の過ちの赦しを神に乞い、また他の人の過ちも心から赦すことができますように。
クリスマスの思い出
毎年、クリスマスの頃になると思い出す。 学生だった私は、主の「敵を愛しなさい」という言葉を聞いた。 街で、私を恐喝した人と出会った時だった。 彼は刑務所を出たばかりで、住む場所も仕事もなかった。 私は主の声に動かされて、彼を自分のアパートに招き入れた。 そして、しばらく彼と共に暮らした。 当時、私はキリスト教会に通っていた。 そしてある日、彼を教会に連れて行った。 彼にも主の愛を知ってほしかったから。 しかし、それは私の独善だった。 彼は、教会の人たちに受け入れられなかった。 彼も、二度とあのような所に連れて行くなと私に言った。 牧師は、彼が私のアパートにいることに反対した。 私は牧師と口論までしたが、結局彼を追い出すことになってしまった。 教会に行く気がないのなら、ここを出て行ってくれと……。 翌朝目覚めると、彼の姿はなかった。 私は自分の罪深さに苛まされた。 失望のどん底に落ち、毎日、必死に主に祈った。 「こんな惨めな罪人を赦し、救ってください」と。 それから一週間も経った雪の降り積もる日の夜 彼が再び、私の安アパートの戸を叩いた。 彼が戻ってきてくれて、私は、嬉しくてたまらなかった。 彼は言った。 「泊まる所がなくて困っている人がいるんだ。助けてやってくれないか」 私は「いいよ」と言ったが、それからすぐ、彼の姿は消えてしまった。 あれが彼を見た最後だった。 アパートの外には、あの人たちが立っていた。 私の人生を決定的に変え 私に希望と生きる目的を与えてくれた人たちだった。 彼らは、イエス様の弟子となる人を尋ねて 導かれてその町にやって来た宣教師たちだった。 私は彼らの生き方に感動した。 そして彼らの生き方こそ 私が求めていた生き方だと確信した。 それからほどなくして、私は彼らの仲間に加わった。 あれから三十六年…… 毎年、クリスマスの頃になると思い出す。 私がこの宣教師の道を歩み始めた時のこと…… あの時、私を突き動かした主の霊が 今も私の心を掻き立てる。 今日は、仲間と共に、被災地に出向いていく。 多くの人から送られた、愛のこもった贈り物と 主の愛という、クリスマスプレゼントを携えて。 昨日、被災地の子どもたちのためにと きれいに袋詰めされた、たくさんのお菓子が送られてきた。 三十六年前に出会った、あの宣教師の奥さんからだった。 あの時、彼らを私のもとに導いてくださった主が 今日、私たちを御心の人のもとに導き あの時、私の心に起こった奇跡が その人たちの心にも起きますように。 被災地は今日、雪が降るそうだ。
被災地でのクリスマス
今週の被災地訪問のメンバーは、友人夫婦とその子どもで中一の男の子、そして友人の二人の女性。そして私と娘の計七人で来ています。
昨日の被災地訪問は、以前行ったことのある町に行こうと考えていました。しかし、主に祈って示された導きは、その町よりも手前の町でした。その町も津波で大きな被害を受けた所で、私たちはそこに行くことにしました。その町の仮設住宅は広い敷地に並んでいました。
以前、クリスマスの時期には、ホテルやいろいろなホールで、クリスマスコンサートやパーティを開催したものでした。一流のホテルで豪華な雰囲気を味わいながら、ミュージックやダンスなどを楽しんで頂くのです。チャリティが目的でしたが、クリスマスシーズンの私たちの時間と労力は、ほとんどがそれらのイベントの準備に注がれました。
しかし、今年は、華やかなクリスマスとはまったくかけ離れた、雪のちらつく被災地の仮設住宅を回っています。私個人としては、こんなクリスマスの過ごしかたの方が好きです。心に傷をもち、癒しを必要としている人たちに、慰めに満ちた「神の愛」のプレゼントを届けられるとは、何と祝福なことかと思います。
イエス様のメッセージをすべての人に受け入れてもらえるかはわからないけれど、少しでも笑顔のひと時を届けられたら本望だと思いつつ、仮設住宅を回りました。
私は十五歳になる娘とチームを組み、サンタの赤い帽子をかぶっていました。外気温は、昼過ぎには二度、仮設住宅を回り始めたころは、おそらく零度以下だったと思います。車から出た時は寒さが身にしみましたが、プレゼントの箱を担いで歩き回っているうちに、体が暖かくなってきました。ハァハァ言いながら大きな重い袋をかついでいた娘も、暖かくなっているようでした。
「メリー・クリスマス! 皆さんにクリスマスプレゼントお持ちしました!」と言って回っていると、前回と同じように、皆、感謝してそれを受け取ってくれました。ある年配の御夫婦は、私と娘にお茶を勧めてくれ、仮設住宅の中に招いてくださいました。
そこはあまりに狭くて驚いてしまいました。一人でも窮屈だな……、今までずっと狭い部屋で暮らしてきた私でも、そう思ったほどです。
彼らはお茶やフルーツゼリーをふるまってくださり、奥さんがCDプレイヤーを持ってきて「『ありがとう』の歌を聞かせたくて」と言って、コンセントを差し込みながら説明してくれました。
「詩を作ったんですよ。『ありがとう』という題の。そうしたら、いろんな方がそれを気に入ってくださって、それに曲まで付けてくれて歌になったんですよ。それで今では、新聞やテレビ局の人までもがやって来るようになったんです。聞いてください」
そして彼女はスイッチを入れて聞かせてくれたのでした。それは、被災地を支援してくれた人たちへの感謝の気持ちを歌ったもので、とても素敵な歌でした。その歌詞のはじめの部分だけですが、ご紹介します。
♪「被災地からのありがとう」(作詞・高橋久子 作曲・三浦明利)
月よ星よ 届けてほしい
みんなの願いが届いて 笑顔が戻ったことを
鳥のように 空を飛んで ありがとうを届けたい
太陽のような 笑顔になって ありがとうを届けたい
とつぜん 何もかも なくなったけれど
世界の人々が みんなが 支援してくれた
ニコニコしている旦那さんは、十二人兄弟の十二番目だと聞かされて、私が娘を指して「えー、この娘は私の十二人の子どもの十一番目ですよ」と言ったら、驚いていました。そして娘の名前を尋ねられて、「あかり」だと答えると、「ありがとう」の詩に曲をつけてくれた人と同じ名前だということで、またまた驚いていました。そして旦那さんは十二人兄弟のうち、八人が男で四人が女だと教えてくれ、私の子どもは四男八女ですと言うと、ますます話が盛り上がりました。
そして、「私も実はCDを作製したばかりなんです。聞いてください」と、すでに差し上げた袋を指差して、その中に友人のミュージシャンが歌っている歌と、自分のスピーチが入っていると説明すると、「すぐに聞きます」と言ってくれたのでした。
帰りには、リンゴを持たせてくださり、連絡先も教えてくださいました。主がこの町に導かれたのは、きっと、この御夫婦に会わせるためだったのでしょう。
プレゼントを届けにきたけれど、今日もまたたくさんの愛のプレゼントを被災者の方々から与え返されてしまいました。外はとても寒かったけれど、心はポカポカになった一日でした。
旅の友
私は、神は私たちに、愛するための人生を与えて下さっているのだということを知るに至りました。ついに長い間探し続けていた人生の答えを見つけた時の感動は、今も忘れられません。それからというもの、私の人生は180度変わっていったのです。
聖書の中に語られている次のようなイエス様の言葉があるのですが、これを読んだ時、本当にこの神の言葉は真実であると実感しました。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(ルカ11章9,10節)
こうして、ついに探し求めていたものを見つけることのできた私は、同じように人生の意味を見出せずにいる多くの人たちにも、この真理を伝えたいと強く思い、宣教師になることを決意しました。以来40年の間、神様の愛を日本各地、そして中国やロシアなどにも赴き伝え歩いてきました。
その間に、同じく伝道活動をしていた女性と結婚し、12人の子どもに恵まれることになりました。
人生の意味と目的を知った私が、もう一つ、わかったことは、神様は私たちをどんな状況にあっても養ってくださるということです。私は宣教のために全国各地、また海外にも行って忙しく働いてきましたが、貧しい中で、12人の子どもたちが今まで養われ、成長してこられたのは、ただ神様の深い恵みに与からせて頂いたからに他なりません。そして、以下の聖書の言葉もやはり真実であったと確信するに至りました。
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」 (マタイ6章25~34節)
私は生涯、この真理を、人々に伝えるために捧げたいと思っています。そして、今、これを読んでくださっているあなたにも、それを伝えたいのです。
あなたは、人生の意味や目的を見つけましたか? あなたを、深く愛し、気遣っておられる方を知っていますか?
人生の苦しみや試練、また自分の罪深さにどうしようもなく思い悩み、生きていることに何の意味も見出せないでいるのなら、神様はまさに今、その苦しみ悩みを通して、あなたの心の扉を叩いています。神様は今までずっと、あなたがあなたの造り主である神を見出し、心に受け入れてくれるのを忍耐強く見守り、待っていたのです。
聖書にはこう書かれています。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3章16節)
この宇宙、そして私たちの造り主である神は、今から二千年ほど前に、御子であるイエス·キリストをこの地上に送ってくださいました。それは、私たちを、自分でどうすることもできない罪から救い、その罪から解放されて愛に生きるようになるためでした。
聖書でいう罪とは、神の御心から外れた思いや行い、つまり愛のない思いや行為のことをいいます。殺人や、盗みを働いたことはなくても、誰にでも、心ない言葉で人を傷つけたり、嘘をついたり、ねたんだり、悪口を言ったり、誰にも言えないような醜い思いを抱いたことがあるはずです。それが聖書でいう罪なのであり、この罪を持ったままでは、人は幸せになることはできないのです。私たちは自分がそうした罪をかかえて生きていることに気づいてさえいません。イエス様は、ご自分を十字架につける者たちのために、次のように祈られました。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ 23章34節)
そして、それは私たちのための祈りでもあったのです。イエス·キリストは、私たちの罪をあがなうために、十字架上で命を捧げてくださったのです。
しかし、イエス·キリストは死んだままではありませんでした。聖書の記述にあるように、三日目に生き返り、四十日間にわたり弟子たちや、何百人もの人たちの前に現れ、最後に、弟子たちの前で、「あなたたちが見たもの、聞いたことを全世界に行って宣べ伝えなさい」と言われて、天に昇っていかれたのでした。そして、その福音は、やがて弟子たちや宣教師らによって世界中に伝えられ、私たちもその福音に与かることができたのです。
イエス様は言われました
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(黙示録3章20節)
どうぞあなたも、今、次のように祈り、神の御子イエス·キリストを心の中に招いて、その愛の深さ、優しさ、真実さを体験し、味わってください。
イエス様は本当にあなたを愛しています。
<祈り> イエス様、利己的で愛のなかった私の全ての罪をおゆるしください。どうか私の心の中に入り、永遠の命をお与えください。そしてあなたの愛で満たし、その愛で他の人を愛することができるよう助けてください。どうぞ私のこれからの人生を導いてください。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン。
心からこの祈りをしたなら、今、イエス様はあなたの心の中に入られました。そして、あなたは神の子となり、天国の一員になったのです。あなたの全ての罪は、イエス様の支払われた血の代価のゆえに清められ、霊の内に新しく生まれました。そして、たとえこの体が滅びても、いつまでも滅びることのない、永遠の命を得たのです。
彼(イエス様)を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。(ヨハネ1章12,13節)
この人生の旅が終わるまで、神の御子であるイエス様がその旅のお伴をしてくださいます。愛であられる神様が備えてくださったあなたの人生という旅が、神様の愛といつくしみで満たされたものとなりますように、心からお祈りしています。
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