山を動かす-マタイ21章21節の信仰
質問:
マタイ21章21節の「もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになる」の意味を教えていただけますか。
回答:
この箇所のことばによって、主は真に信じるとはどういうことかという問題の核心に切り込んでおられます。同じ趣旨はルカ17章6節、マタイ17章20節、そして21章20–21節にも見られますが、ルカの箇所では、いちじくの木が引き抜かれて海に植えられることについて語られています。そしてルカ、マタイ17章の箇所でも、イエスは、からし種ほどに小さな信仰でもあれば、これらの劇的な祈りの応答を受けることができると言われています。さらに、マタイ17章の箇所で主は、変貌の山から降りられたあと、弟子たちが悪霊を追い出すことができなかった理由を説明されておられます。「あなたがたの信仰が小さいからだ」と。
すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。 大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベル(すなわちキリストの予型)の前に平地となる(すなわち神殿建設のため)。彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう」。(ゼカリヤ4章6-7節)
ゼカリヤ書のこの箇所が示すように、山を動かすこと――文字通りであれ比喩であれ――は、神の御心の中で神の霊によってのみ成し遂げられうることです(ヨブ記9章5節参照。山を動かすことができるのは明らかに神だけです)。マタイ21章22節で、あなたが問われた節の文脈の中で、イエスはこう付け加えられます。「信じて祈るなら、求めるものは何でも受ける」。したがって、いちじくの木を引き抜き、山を動かすという挑戦は、私たちが彼を信じる者として到達すべき地点――すなわち、真に最高度の確信を持つ信仰を所有する霊的状態――を表しています。この状態は、a)神の御心が何であるかを成熟した知識によって理解すること(ピリピ1章9–10節)、b)その知識に基づく霊的成長を通してのみ得られる、神との成熟した関係(ヘブル5章14節参照)によってのみ達成されます。私たちの主はこの二つを完全な度合で備えておられ、生涯を通じて神を完全に信頼し、恵みのうちに着実に成長し続けられました(ルカ2章40節, 2章52節)。このために、祈りによって「山を動かす」彼の能力は、弟子たちがしばしば示した「わずかな信仰」(マタイ17章19節以下参照)とは比較にならないのです。そして私たちもまた同様に弱いことがしばしばあります。しかし、彼に近づけば近づくほど、私たちの信仰は強められ、祈りはますます効果的になります。たとえ今は山を動かせなくても、主が私たちに語っておられることすべては、私たちが信仰をそこまで発展させることができるということを示しており、そして「からし種一粒」ほどの信仰でも、もっとも驚くべきことを行うには十分なのです。
多くの人は、「山を動かすために必要な信仰」とは、何かを奮い立たせる――困難な状況で勇気を奮い起こすような――ことだと考えています。しかし実際には、それは「かき集める」というよりも「手放す」ことに近いのです。私たちの人生には必ず、どんなに努力しても(計画しても、思案しても)自分ではどうしようもない問題に直面する時が何度もあります。そのような時、私たちは神が状況を御心に従って解決してくださると信頼することを学ぶ必要があります。そしてその御心は、あらゆる点で私たちの益となるものであることを思い出し、信じるのです(ローマ8章28節)。アブラハムがイサクを山に連れて行き犠牲として献げようとしたとき、彼にはそれがどのようにして良い結果に終わるのか見当もつきませんでした――結局、それを命じたのは神ご自身なのですから、アブラハムの理解の範囲では、神の判断を待つということでさえありませんでした――これは重要な点であり、アブラハムの従順と主への信頼の深さを説明しています(そのため彼は真に「神の友」と呼ばれるのです)。ダニエルが獅子の洞穴に投げ込まれる時にも、どのように神が、あるいは神がそもそも助けてくださるのか、彼には分かりませんでした。しかし、彼がこの恐ろしく悲惨な運命の前で、その事柄を主の御手に委ねたことは私たちの知るところです。実際、彼は殺されようとしていたのです――何らかの奇跡が起こらない限り――しかも自分の忠実さゆえに。そのダニエルについて、聖書は「彼が自分の神に信頼したので」救い出されたと語っています(ダニエル6章23節)。これら二つの例(そして聖書にある数えきれない例、さらに私たち自身の経験と観察の例)において、信者にできることは何もなく、信じ続けることだけでした――祈ることはもちろんですが、その祈りも、神の助け、神の救い、神の良い御心の成就を完全に信じて祈ることでした。たとえ状況が私たちの限られた地上的視点からはどれほど絶望的に見えたとしても。
山を動かすことは不可能です――神を除いては。しかし神にとって不可能なことはありません。これらの節の焦点は、奇跡そのものでも、それを祈る人物でもなく、むしろこのような栄光あることを御自身の主権的目的のためになされる神にあります。もし実際に山が動いたとしても、注目すべきは奇跡そのものではなく、その祈りをした人を過度に崇めるべきでもなく、むしろこうしたことを成し遂げられる神なのです。山を動かすことは不可能であり、それこそがイエスの比較の意図なのです。もし私たちが山を動かす必要があるのであれば、神はこれを何の努力もなく行うことがおできになるだけでなく、私たちの人生における御心と御計画の成就のために必要で良いことであれば、どんなことでもしてくださるということを理解しなければなりません。神は必要なことを必ずしてくださる――私たちはただそれを信じるだけです。誰にでも山はあります。その道を塞ぎ越えることが明らかに不可能なほど大きく恐ろしい障害があります。しかし主のこれらのことばを思い出すなら、私たちは、主が私たちの手を取っておられ、主を信頼し続ける限り、増し加わる水の中でも沈まないことを知るのです。
パウロは第一コリント13章2節で「山を動かすほどの信仰」と語っていますが、これは明らかに、信仰が極限まで試される状況を表しています。すなわち、「神が私のために不可能と思えることさえ行ってくださると信じるだけの信仰を、私は本当に持っているのか」という問いです。主は、私たちが求めるものを何であれ絶対に行ってくださると信じることを求めておられるわけではありません――私たちは、完全に純粋な動機で祈っている場合であっても、何が本当に自分にとって最善かを知るほど賢くはありません――むしろ、ここで賞賛されているのは、たとえ状況が本当は何を必要としているのかを知らない場合でも、神が私たちに必要なことを何でもしてくださるという信仰なのです(ローマ8章26節)。ここで称えられているのは、私たちの状況についての知識ではなく、むしろそのような知識がない中でも信じる信仰なのです。もし疑うなら、これらの「山を動かす祈り」に対する神の応答を期待すべきではありません(マルコ11章23節, ヤコブ1章6–8節参照)。なぜなら私たちが疑うとき、疑っているのは実際には神の性質、神の約束、神の力だからです。こうした試練の中で、私たちが雪を頂く大きなロッキー山脈を前に立ち尽くすような時、神は私たちがそこに立つであろうことをすでにご存じであり、通り抜ける道が必要であることもご存じであったことを思い出す必要があります――それこそが、その山々がそこに存在する理由の一部(おそらく最大部分)なのです。道の中に山々がなければ、私たちの信仰は成長に必要な程度まで試されることも、またその真価が証明されることもありません。道を塞ぐ山は、神が私たちの信仰を金のように精錬し、その本当の価値を世に、また御使いたちに示される方法なのです(ヤコブ1章2–3節; ローマ5章3–5節; ヘブル11章参照)。
主は、あなたが尋ねられたこれらの節において、この問題を非常に率直に述べられています。他の多くの主のことばと同じように、この言葉には真の「力」があります。私たちがその場面を自分に当てはめると、たじろぎます。主は「ただ信じなさい。そうすれば起こる」と言われます。私たちは、これには痛みが伴うこと、そして時間がかかること――しばしば果てしない時間――があることを知っています。しかし主は、事の終わりを見つめるよう私たちを促しておられます。たとえその山が氷河のようにゆっくり動くとしても、最後には、もし主を信頼していたなら、私たちは勝利を得、主がその山を確かに動かされたことを知るのです。人間の視点からは、山は動いたとしてもほとんど知覚できないほどゆっくり動くものですが、神にとって一日は千年のようであり、人類の全歴史はまばたきほどです。私たちはこれらのことを知っており、また、私たちが必要とする不可能なことさえ主がしてくださることを信頼できることを知っています。しかし、知識だけでは足りません――主の善、力、予知、憐れみ、すべてを計画される御心について私たちが知っていることを、完全に子どものような信仰によって心の中で働かせ、見えるものや感じるものを無視し、むしろ神のことばを信頼する必要があります。
結局、私たちはすでにその経験を持っています。私たちを死と滅びから救うためには、罪のために死んでくれる者が必要でした――不可能中の不可能――そして神はこれを、ご自身にとって最大の代価を払って備えてくださいました。私たちには、イエス・キリストの十字架があります。カルバリで支払われたあの犠牲と比べるなら、どんな山であっても、取るに足らないほど小さいものであることを思い起こさせてくれるのです。
そして最後にもう一つ重要な点を述べます。あなたが尋ねられた山を動かすという主の言葉は、弟子たちが特にしつこい悪霊を追い出せなかったという文脈の中で語られています(マタイ17章18–20節)。その悪霊を主は瞬時に追い出されました――そしてそれは瞬時に必要であり、即座に成されるべきことでした。私たちの困難はしばしば重くのしかかり、私たちは同じように即座の解決を求めます。しかし、「主を待ち望む」こともまた習得すべきことです。私たちが即座の救いを必要とするために山が即座に動かなければならない場合もあります。しかし多くの場合、その山が動くには、主が最も適切な時に祈りに答えてくださるのを待つことが必要となります。そのような場合、私たちの信仰の尺度は、神がそれを行うことができるという確信の度合いだけではなく、それが自分の望むほど速く起こらなくとも信じ続ける粘り強さにもあります。
信仰についてさらに詳しく知るには、以下のリンクをご覧ください:
Free-Will Faith and the Will of God.(英文:自由意志による信仰と神の御心)
Faith: What is it?(英文:信仰とは何か?)
Free-Will Faith in the Plan of God.(英文:神の計画における自由意志の信仰)
Free-Will Faith.(英文:自由意志の信仰)
また、
来たる艱難期第5部 の「オリーブ山へのイエス・キリストの再臨(ゼカリヤ14章2–7節)」もご覧ください。この約束が文字どおり成就する箇所です。
祈りについてさらに詳しく知るには、以下のリンクをご覧ください:
Corporate Prayer: “When Two Agree on Earth” (Matt.18:19)(英文:共同の祈り:「地上で二人が同意するなら」(マタイ18:19))
Cumulative Prayer(英文:累積的な祈り)
The Lord’s Prayer(英文:主の祈り)
Can Prayer be Offered to the Son?(英文:祈りは御子にささげることができるか?)
Holding up Holy Hands in Prayer(英文:祈りの中で聖なる手を挙げることについて)
Imprecatory Prayer(英文:呪詛の祈り(インプレカトリー・プレイヤー))
Praying for Wisdom(英文:知恵を求める祈り)
Prayer for Failing Faith(英文:弱くなった信仰のための祈り)
Can Prayer Be Offered From Heaven?(英文:天から祈りをささげることはできるか?)
Prayer and Imitating Christ(英文:祈りとキリストへの模倣)
主が求めるものをはるかに超えて、私たちの祈りや願いをかなえてくださる御方、私たちの尊い主、救い主イエス・キリストにあって。
ボブ・L.