ペテロの手紙シリーズ#14 

信仰と霊的成長

英語原文は https://ichthys.com/Pet14.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著 

復習: 霊的成長は、単純な過程ですが、厳しいものです。 神の御言葉を探し求め、耳を傾け、神の真理を信じ、その真理に従って生活し、神の教会の使命を受け入れ、与えられた霊的賜物に従って他の人々を助けることが必要です。 

前回のレッスンで取り上げた「聞くこと」は、このプロセスの最初のステップです。 「聞く」ということは、聖書と健全な聖書の教えに専心することによって、霊的な成長を始める責任があるという原則を強調しています–自分の意志を放棄するのでもなく、判断を停止するのでもなく、自分が成長できるような学習や礼拝の環境を探し、選択するのです。 

私たちは今、霊的成長のプロセスの第二段階である「信じる」ことに進んでいます。 この段階は、私たちが「内なる人」を造り上げようと奮闘する中で、おそらく最も重要な段階であり、ほとんどの信者の霊的成長において「成否を分ける」段階となるからです。 私たちは、信仰による成長の過程を説明する七つの原則を検討することによって、この主題に取り組みます。 

II.  信じること: 

(1) 信仰なしに成長はない: 

しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 (ヘブル4章2節

聖書や聖書の教えに触れるだけでは、霊的成長をもたらすには十分ではありません。 神の言葉が私たちの心の中で「信仰と一体となって」いなければ、単なる知識の習得は私たちを「啓発し」ません<「築き上げる」「育てる」というギリシャ語の「オイコドメイ οἰκοδομή」の原意から「啓発する」「明らかにする」>(エペソ4章16節)。 成長するためには、それ以上のものが必要です。 信仰が必要なのです。 真の霊的成長には、神の御言葉の教えを受け取るだけでなく、それを信じることが必要です。 

神の御言葉を私たちの魂の倉に預けられた「運転資金」の一部とするには、神の尊い真理を完全にかつ無条件で心に取り入れることが必要です、私たちが聖書の教えを信じなければ、困難や誘惑の時にその教えに寄りかかることができず、「砂の上に」霊的な家を建てたことになってしまうからです(マタイ7章24-27節)。 それを信じることによってのみ、聖書の真理の原則は本質的に私たち自身のものとなり、それを信じることによってのみ、神の知識の本質的な要素は、真の意味で、私たちに理解され、私たちが使用できるようになります。神のメッセージを信じることによってのみ、そのメッセージの積み重ねが、この世、肉、悪魔の毎日の猛攻撃に耐えることができる私たちの心の中に安全な土台を形成し始めるのです(第一ペテロ5章8-9節)。 クリスチャン生活の「良い戦い」をするためには、私たちの心に適切な弾薬が必要です。それは神の御言葉の真実を堅く保つことです。 

(2) 信仰とは、神を信頼することです: 

(アブラハムは)主に信頼したので、(主は)これを義とされたのです。(創世記15章6節 <口語その他の日本語訳は「信じたので」ABP,TEV訳は「信頼したので」英文からの訳) 

信仰が本当の意味を持つためには、価値ある対象がなければなりません。クリスチャン生活、すなわち信仰生活を始めるために、私たちが信頼を置く価値ある対象は、主イエス・キリストです(「主イエスを信じなさい、そうすれば救われます」使徒16章31節)。 信仰は、神への信頼というこの一つの小さな行為から始まります。 神は、私たちが御子イエス・キリストを受け入れさえすれば、永遠の命を約束してくださいます。私たちはイエスを信じます。私たちが神と神の約束を信じることが、神の恵みによって私たちを救う信仰なのです(エペソ2章8-9節)。 

救われた時と同じように、霊的成長の過程においても同じです。 私たちは、神の御子を信じるという単純な行為によって、瞬く間に神の家族に入ります。しかし、霊的に成長するためには、私たちの信仰という小さな種は、この地上での人生を通して神が育て、刈り込みながら成長し続けなければなりません。この世の試練が私たちを待ち受けているとき、私たちは、イエス・キリストを救い主として受け入れたときと同じように、信仰を適用する用意ができていなければなりません。私たちは、信仰の盾でこれらの激しい攻撃に立ち向かう準備ができていなければなりません(エペソ6章16節)。つまり、私たちは神の約束とそれを裏付ける神のご性質を信頼する準備ができていなければならないのです。 

霊的成長とは、第一に、基本的に、私たちの信仰の成長であり、私たち自身と神との間に信頼関係を築くことです。個人的な人間関係においては、私たちは経験によって相手の信頼性を学びます。私たちは、相手の言葉を聞き、相手の行動を見ることによって、相手の人格を学びます。 クリスチャン生活において、私たちは、限りなく信頼に値する完全な人格を持つ人を相手にしています。 しかし、この事実を実際に理解するためには、私たちが本当にできる唯一の方法、すなわち、神の聖なる御言葉を毎日熱心に学び、聖書に書かれている真理を日々の経験に適用することによって、「神を知る」ことが必要です(ヨハネ17章17節)。 聖書から、私たちは日々、主をよりよく知るようになり、過去の信仰者に対する主の誠実さと、今ここにいる私たちに対する主の約束を読むのです。 どの章からも、どの節からも、神の恵み深さが私たちに語りかけてきます。 

神を信頼することを学ぶのは、いつも簡単なことではありません。 特に絶望的と思えるような窮地に直面する時はそうです。しかし、霊的な浮き沈みがありながらも(創世記12章9-20節参照)、神をよりよく知るために与えられた機会を生かし、霊的な成長のために忍耐した信仰者、アブラハムの例を思い起こすべきです。 やがて彼の信仰は、神が一人息子を生け贄に捧げるよう告げられたとき、彼は神のご性質についての親密で個人的な知識を持ち、その信仰を通して、実際に実行することはおろか、理解することも非常に難しいことをするよう求められたときでも、神を冷静に信頼することができるほどに、途方もなく成長していたのです(ヘブル11章17-19節)。信仰とは、神を信頼することですが、その信頼は、そのような信頼が正しいものであり、私たちは確信をもって神に頼ることができ、人生の複雑な状況がそうでないことを示しているように見えても、神を信頼することが常に最善の道であるという確固たる確信(聖書の教えに根拠を置き、多くの個人的な経験によって注意深く育まれた)の上に築かれるのです。 

(3) 信仰には集中が必要です: 

…わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。(ヘブル12章1節後半、2節前半) 

   

救われた時、私たちは永遠の命の約束のために主イエス・キリストを信じました。 クリスチャンになった今、私たちはこの信仰を毎日働かせ続けなければなりません。-事実、私たちの霊的成長はそれにかかっています。 しかし、クリスチャン生活を営むとき、私たちの目的は、単にキリストへの信仰を維持することではなく、真の弟子のようにキリストに従うことを学びながら、その信仰を強めることです。 キリストを信頼するたびに、キリストの言葉を信じるたびに、私たちの信仰は強くなっていきます。 だからこそ、人生の暗く絶望的な時が、最も霊的に報われる可能性を秘めているのです。困難な状況というのは、少なくとも私たちが神と神の変わらぬ助けに集中できるようになるという利点があります。 

もし私たちが神を最も必要としているときに神を信頼し、神の憐れみと助けを直接体験するなら、試練が過ぎ去ってもある程度の集中を保つことができるはずです。 しかし実際には、しばしば逆のことが起こります。 豊かな状況下では、私たちは警戒を解き、困難な時を乗り切った信仰の粘り強さを怠りがちになるのが人間の本性のようです(ヘブル10章32-39節)。 しかし、信仰によってイエスに集中することは、いつでも霊的成長の重要な鍵です。なぜなら、そのような意識は、この世の誘惑や脅威を適切な視点に置く助けとなるからです(ヘブル11章26-27節)。 

「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」ために、私たちは日々、「私たちの信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめる(ヘブル12章1節後半-2節 新共同訳)」必要があります。「見つめる」という言葉のギリシャ語は「アフォラオ」という動詞で、人の注意を他のすべてのものからある特定の対象に向けることを意味します。 私たちの信仰が成長し、私たちの主の御姿に焦点を合わせるというこの重要な仕事を成し遂げるために、神は信仰を手入れし、栄養を与え、剪定して、その成長と実りを最大にします(ヨハネ15章2節)。 信仰が成長するには、この二つの要素が必要です。 神の御言葉によって「養われる」ことは、私たちに多くのことを約束してくださった方のご性質をより明確に理解する信仰を増し加え、人生に常に存在する試練という「剪定(古い枝の刈り込み)」は、私たちが神の御言葉から学んだ知識を弾力性のある知恵に変える役割を果たします。 こうして私たちの信仰は、試練の時に力を発揮することのできる(いわば)「筋肉」をつけるのです。 

私たちの成長、クリスチャン生活における成功のすべては、神の御子イエス・キリストと、彼が体現するメッセージに照準を合わせ続けることにかかっています。 ヘブル人への手紙1章2節にあるように、神は「終わりの時には、御子によって私たちに語られた」のです。キリストは受肉と十字架上の御業を通して、預言者たちと使徒たちの手によって、私たち教会に「見えないかた<主>を見ているように」(ヘブル11章27節)することができ、「見たことはないが、彼<主>を愛する」(第一ペテロ1章8節)ことができる手段を与えてくださいました。 主は私たちに聖なる御言葉を与えてくださいました。 

(4)信仰のうちに得た知識だけが、信仰のうちに適用できるのです: 

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 (ヘブル11章6節)  

霊的成長は、適切な「霊的栄養」を摂取して初めて達成されるものであり、ペテロはこの原則を念頭に置いて、私たちに「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」(第一ペテロ2章2節)と教えているのです。 しかし、ただ御言葉に触れるだけでは十分ではありません。聖書や聖書の教えを通して得た真理を役立てるためには、それを信じなければなりません。そうでなければ、ヤコブの手紙に出てくる、鏡を見て立ち去り、すぐに自分の姿を忘れてしまった人のようになってしまいます(ヤコブ1章22-25節)。 同じようなことがコリントの信徒たちにも起こりました。彼らは使徒パウロが死者の復活の教理について何度も個人的に教えるのを聞いていましたが、どうやら自分たちが教えられたことを疑っていたようです。 その結果、彼らはある特定の試練や偽りの教えに対する備えができておらず(例えば、愛する人の死に際して、自分たちが弱い立場に立たされていることに気づいたはずです)、パウロから鋭い叱責を受けたのです(第一コリント15章12-19節)。  

同じように、ある真理の原則を聞いたにもかかわらず、それを信じていない場合、その知識は、たとえ覚えていたとしても、危機に際して何の役にも立ちません。信じていないものは、私たちを慰めることはできないのです。私たちの信仰は、試練が訪れたときに拠り所となる具体的なものを持っていなければなりません。それは、私たちの心にしっかりと据えられた真理の原則に固定されていなければなりません。 私たちの信仰はキリストに向けられたものでなければなりませんが、同時に、キリストが私たちに遺された真理を、私たちがこの人生を安全に歩むために必要な「燃料」として、私たちに根付かせなければなりません。聖書に記されている真理の原則を信じないことは、真理を探し求めないことと同じくらい危険なことであり、そのようなやり方では、私たちの霊的な勢いはすぐに「空回り」して止まってしまうでしょう。 

(5) 真の信仰は折衷的なものではありません: 

これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。 (第一テサロニケ2章13節) 

不信仰症候群とよく似ているのが、「いいとこ取り」信仰です。 この二つの霊的な病気の微妙な違いは、明白な不信仰は少なくとも明確な反抗行為であり、信者は誤った個人的な理由のために神の真理を拒否することを選択します。 しかし、いいとこ取り不信仰は、反抗的というよりも、むしろ自己欺瞞的です。パウロがテサロニケの信徒たちを称賛したのは、自分の教えを忠実に受け入れたからであり、コリントの信徒たちを非難したのは、自分たちが受けた正しい教えを簡単に捨てて、最新の間違った流行を取り入れたからです(第二コリント11章4節)。信仰者として、現代世界のあらゆる不確実性と闘わなければならず、現代のキリスト教の多種多様な側面から選択しなければならない私たちは、聖書の「情報」の不確実性を調整することを自分自身に課してしまう危険性があります。しかし、私たちが受け取る教えの最終的な審判者として自分自身を設定する場合、私たちは何も確信が持てないところまで疑問を増幅させる危険性があります。常識的に考えて、特定の教えの真偽を判断する唯一かつ最終的な権威を自分自身に求めるのは危険です。  

結局のところ、神が御言葉を宣べ伝える霊的賜物を私たちの間に分配されたのは、私たちの信仰を確立するためなのです(エペソ4章11-16節)。 確かに、多くのカルトや偽教師が存在する今、私たちはどのようなグループと交わりを持ったり、特定のミニストリーに身を委ねたりする前に、誰を信じ、何を信じるべきかについて細心の注意を払う必要があります。 聖書は、そうするようにはっきりと勧めています(第一ヨハネ4章1節)。しかし、特定の教会やミニストリーが私たちの霊的成長の観点から全体的に私たちの信頼を得ている限り、私たちはその教会やミニストリーの本質的な真実さを確信したら、信仰をもって参加する方がはるかに良いのです。 

信条において選択的であることは、私たちの信仰を損なうだけでなく、私たちが築こうとしている聖書知識の「霊的な家」を損なうという欠点もあります(エペソ2章19-22節)。聖書には無数の教義、原則、教えが含まれています。私たちが自分の内に建てようとしている霊的な家の構造において、どの「レンガ」が役に立つかは、すぐにはわからないかもしれません。しかし、しっかりとした完全な土台だけが、人生の嵐の試練に耐えることができるという事実を理解すべきです。 

からし種のような小さな信仰をもって私たちは神の家族に生まれ、その信仰が成長し、天のすべての鳥に隠れ家を提供できるほどに大きくなることが、私たちに対する神のご計画なのです(マタイ13章31-32節)。このような霊的成長には、私たちの信仰が聖書にあるすべての真理の原則に手を伸ばし、それらが筋肉や骨が編み込まれるように、霊的性格の緻密な織物を形成するまで受け入れることが必要です。 神と神のご計画について私たちが学ぶことは何でも、その時点では平凡で無意味に思えることであっても、これらの要素はすべて、私たちの将来の成長と霊的成功のすべてが依存するマスターフレームワークや上部構造に貢献します。聖書の真理は私たちの信仰と一体となり、あらゆるクリスチャン生活に立ちはだかる試練に耐えうる、より強固な「霊的な背骨」を生み出すのです。  

さらに、このプロセスは循環的で自己強化的です。すべての原則を習得し、信じることは、パズルのもう一つのピースを完成させ、信仰の土台を固めるために、もう一つのレンガをしっかりと設置することなのです。 聖書の教えを謙虚に受け入れることが、私たちの「霊的な家」を人生の洪水や風に耐えられる岩の上に建てる唯一の確かな方法なのです(マタイ7章24-29節)。 

(6) 聖霊は私たちの信仰を築くパートナーです: 

ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。 (第一コリント2章12節) 

霊的成長に必要な真理の原理を学ぶことは、私たちの知性に依存するものではありません。神はすべての信者に聖霊をお与えになり、私たちの魂に真理の土台を築き、神が私たちのためにしてくださったことがどんなに偉大なことであるかを知り、感謝するようになるという重要な仕事を助けてくださっているのです(1コリント2章12節)。問題における神の助け(私たちの内におられる聖霊の働き)がなければ、私たちのI.Q.がどんなに高くても、神の真理を学ぶことは不可能です。 真理の原理を含む聖書の情報は、学問的な意味で「学ぶ」ことができないわけではありませんが、信仰がなければ、また聖霊の教えの働きがなければ、そのような学びは無意味であり、霊的な成長をもたらさないからです。聖霊が私たちの信仰とともに働かなければ、聖書の教えの内容は私たちの心にではなく、思考にしか届かず、私たちは「異言で語る」人の話を聞く人のようになってしまいます。その人の言うことは善良で真実かもしれませんが、私たちには意味がなく、実際何の役にも立ちません(第一コリント14章4節)。 

聖霊がなければ、人は「神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきである」(1コリント2章15節)。 ここでパウロが使っている「判断する」と訳されているギリシャ語はアナクリーノで、「注意深く吟味する」という意味です。 人は聖句に精通していても、聖霊の啓蒙の働きがなければ、聖句の意味と重要性を完全に理解することはできません。 

一方、私たち信者は「キリストの思い」、すなわち聖霊を持っており、聖霊は私たちが聖典に含まれている神の真理を理解するのを助けてくださいます(1コリント2章16節)。ですから、神の完全な御心を知りたいと願う私たちは、人間の知性や教師の限界に依存することはありません(ローマ12章2節)。神の御言葉を学ぶことによって信仰を高めようとする私たちの探求に、傲慢さやフラストレーションは許されません。なぜなら、私たちは独学でもなく、他の誤りやすい人間に完全に依存するのでもなく、神の聖霊を師としているからです(ヨハネ14章17節17章26節第一テサロニケ4章9節第一ヨハネ2章27節)。 

(7) 真の信仰は必ず結果をもたらします: 

霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。 (ヤコブ2章26節

ヤコブ書の上記の箇所は、広く誤解されている箇所です。この箇所は、私たちが「天国への道を働きによって辿らなければならない」という意味に解釈されがちです。しかし、これ以上に真理から遠いものはありません。ただ信仰による恵みによる救いの原則は、エペソ2章8-10節にはっきりと述べられています。さらに、パウロはその中で、「(救いは)決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためなのである」と明言しています。 (これがなければ信仰は死んだものだという)ヤコブの言う「行い」とは、パウロがエペソ2章10節で述べている「神がそうするようにとあらかじめ備えてくださった」「良い行い」と同じものです。 

ですから、私たちは善い行いを自分たちが計画して実行するものと考えるべきではありません。むしろ、私たちの信仰を実践し、示すために神が機会を用意して下さっていると見るべきです。 

また、周りにある仕事において、自分たちの信仰を行動に移そうとして「一人で」行う必要もありません。キリスト教会の成長を助けるために、神はすべてのクリスチャンに何らかの霊的賜物を与えておられ、それは聖霊によって分配され、力を与えられています(第一コリント12章1-11節)。 私たちは、この人生で神のために果たすべきミニストリーの正確な方向性を選ぶことはできません。それは神がなさることです。むしろ、私たちの特定の賜物が明らかになり、与えられたものを効果的に用いることができる霊的成熟さにまで霊的に成長することが、私たちの責任なのです。 クリスチャンのミニストリーの基盤としての神から与えられた霊的賜物という原則は、私たちが行うかもしれない良いわざを誇る根拠をすべて取り除くだけでなく、私たちがこの人生で神に仕える真の奉仕の性質、力、具体的な方向性を支配するのは神であることを確証しています(第一コリント12章4節, 11節)。 

アブラハムの信仰が死んでいなかったことを証明する「良いわざ」は、慈善行為ではなく、神への絶大な信仰と従順の行為でした(ヤコブ2章21節)。 アブラハムはその信仰の行いによって神を賛美しました。そのような<行いによって表される>賛美こそが、霊的賜物、クリスチャンとしての奉仕、そして私たち個々のクリスチャンの信仰が確かなものであることを示すために求められている、あらゆる善行の背後にある核心なのです(イザヤ43章7節第一ペテロ4章10-11節)。神への積極的で生きた信仰が暗闇の世界で光として輝き、神に栄光を帰し、人々が神の愛に引き寄せられて、それは本当にそうなのだということをすべての人に証明するのです(マタイ5章15-16節)。 

[ペテロの手紙シリーズ#15: 罪の告白に続く]