使徒行伝 6章7章

聖書の基礎:聖書における必須の教義第6部B:教会論:教会の研究から「使徒行伝 章ごとの学び」の箇所の抜粋翻訳 6-7章

https://ichthys.com/6B-Ecclesio.htm#Acts_Chapter_by_Chapter

ロバート・D・ルギンビル博士著

使徒行伝6章-エルサレム教会内で増大する責任の世話をするために、公的な立場で「しもべ」(「助祭」)が任命されたことは、最も有益です。使徒たちはこのことについて、神から直接の指示を与えられていないことに注目しましょう。むしろ、彼らの事態収拾は常識的なものであり、本当に重要なこと、つまり神の言葉を宣べ伝えることを損なうことなく問題を解決するために考案されたものです。イスラエルでは、モーセが同様に義父の優れた助言を受けて部下の指導者を任命しています(出エジプト18章17-26節)。この展開からいくつかの重要なポイントが得られます: 1) 地域教会における管理は、どのような地域教会であっても、その教会固有の必要性に合わせて行われるべきです。教会の構成や宣教する状況は常に流動的ですから、(律法のように)石に書かれたものであってはなりません; 2) 管理は、教会の真の目的、すなわち、神のことばの宣教の召使であるべきで、現代によく見られるようなその逆ではありません。

使徒行伝7章-敵意に満ちた群衆がステパノの長い演説に対して辛抱強かったのは、御霊が特別に耳を傾ける機会を与えていることの印です。前章の終わりには、彼の顔は文字通り天使のように見えたとあります(使徒行伝6章15節)。この特別な恵みの取り計らい、特別な殉教を遂げたステパノ、そして主の特別な幻は、すべて非常に独特であり、この特別な転換期を象徴するものです。この事件と聖霊によるその特別なご配慮により、初期エルサレム教会におけるこの驚くべき団結の時代の終わりに独特な終止符が打たれました。次の章では迫害と離散が続きますが、いずれもそれなりに教会の成長に貢献しました(もしエルサレムから一歩も出なかったり、反対派が現れることがなかったら、このようなことは起こりえなかったでしょう:「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)、「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」 (使徒行伝8章4節)。ですから、この時代の転換期に、教会をこの時代の創始期から終わりへと安全に導くために、御霊が最も独特な方法で出来事を注意深く導いておられるのを私たちはここでも見ることができるのです。