「今、あなたがたを救うバプテスマ」(第一ペテロ3:21) The ‘baptism which now saves you’: 1stPeter 3:21
<ロバート・ルギンビル博士>
質問:
第一ペテロ3章21節について説明して頂けませんか。また、主を愛する者にとっては、すべてのことが益となるように働くというのは本当ですね?時々、主が私の試練を他の人の試練と混同しているように思えることがあります。私が期待するような試練を与えてくださらないようです。
返答:
まず最初に、第1ペテロ3章21節を私が訳したものを紹介します。
あなたがたを救うのは,この真のバプテスマ(御霊の洗礼)なのです。あなたがたを救うのは,肉体の汚れを洗い流すのではなく,イエス・キリストの復活によって清い良心を神に訴えることなのです。(第一ペテロ3章21節)
この聖句の文脈は2つあります。
- キリストが復活する前に黄泉の国(特に「アブラハムの懐」あるいはパラダイス)に滞在され、その期間に、主は創世記6章の違反した堕天使たちに勝利を宣言されましたが、この宣言は「御霊をとおして」成し遂げられ、また主は同じ「御霊をとおして」蘇られました。
- ノアとその家族が「箱舟に入る」「バプテスマ」は、私たちのキリストの中に入るバプテスマと類似しています。
この二つの概念は確かに難しいのですが、ペテロは、一方では創世記6章の堕天使たちがハデスのタルタロスに閉じ込められているときに、キリストが聖霊によって与えた勝利のメッセージを、他方ではノアとその家族がネフィリム(創世記6章の堕天使たちが父親。「ネフィリム」)から救い出され、箱舟に入ることによって救われた歴史的な例であり、これは聖霊のバプテスマに類似しています。最後に、ペテロは21節で、御霊のバプテスマによる救いを、18節の御霊によるキリストの復活と比較して、この時代全体を完結させています。これは複雑なことだと思いますので、ここでの二つの主要な考えは、第一に私たちの模範であり救い主である主を救い出すための御霊の力と、第二に私たちのためにこれを成し遂げる御霊の手段、すなわち正しい人が箱舟に入ることで予見されるキリストと一体になるためのバプテスマであることを心に留めて、より理解しやすく議論を引き出すようにこれらの節の概要を述べてみたいと思います。
<第一ペテロ 3章18節 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
19節 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
20節 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
21節 この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。 <ルギンビル博士の訳:⇒あなたがたを救うのは,この真のバプテスマ(御霊の洗礼)なのです。あなたがたを救うのは,肉体の汚れを洗い流すのではなく,イエス・キリストの復活によって清い良心を神に訴えることなのです。>
22節 キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。 >
18節: キリストは私たちのために死なれましたが、御霊の力によって復活されました。
19節: 御霊の力によって、幽閉されていた天使たちに勝利を宣言されました。
20節: ノアが御霊のバプテスマの象徴(箱舟)によって救われたとき、反抗していた者たちに対して<宣言されたの>です。
21節:ちょうど今、私たちがキリストの復活により御霊のバプテスマによって救われているのと同じようにです。
21節は18節に対応しています: キリストが御霊によって復活されたように、私たちも御霊によって復活したキリストに結ばれて救われるのです。
20節は19節に対応しています。キリストが御霊によって黄泉の国の不従順な天使たちに宣教する力を与えられたように、その日の義人たちは箱舟の中で救われましたが、箱舟はキリストの予型であり、御霊によって私たちは、それら箱舟によって救われた義人に対応しています。
18節は19節を補っています:キリストをハデスに連れて行ったのは御霊の力であり、キリストをよみがえらせたのも同じ御霊の力なのです。
21節は20節を補足しています。ノアとその家族は箱舟で救われましたが、これは御霊によってキリストの中にいることによって救われることの型であり、真の反型では、私たちは御霊によってキリストと実際に結ばれることによって救われるのです。
ペテロは二つのことを同時に説明するために「ノアの議論」を加える必要がありました。なぜなら、人間であるキリストも信者も御霊の力によって復活しますが、私たちはキリストの中にバプテスマをされることができますが、その逆はできないからです(そのため「箱船へのバプテスマ」をたとえとして挙げるとともに、御霊の力がキリストの人間性に働いているというもう一つの説明を加えるために、しかもキリストだけに適用されて私たちには適用できない例を選んでいるのです)。そうすることによって、ペテロは一般的なバプテスマについての真理を、間違った解釈が生じない形で説明しようとしているのです。この重要な議論をさかのぼりながら(つまり、21節から18節まで逆から順に、訳語を拡大して問題をより理解しやすくして)、私はこの部分を次のように言い換えてみました。
水のバプテスマはあなたを救いません。そうです。それは、あなたが悔い改めて神に呼びかけ、イエスとその復活を信じることによって、御霊があなたをキリストの中にバプテスマすることであり、神があなたの祈りに答えて、神の前に清い良心をもたらすことであなたを救うことになります。あなたを救うのは悔い改めと信仰で、表面的な体の汚れを洗い流すことによるのではなく、悔い改めと信仰によってあなたの心を洗うことが真の洗礼であり、悔い改めと信仰に伴う御霊の洗礼なのです。御霊のバプテスマは、ノアとその家族が経験した「バプテスマ」に似ています。彼らは、あなたがキリストの中に入るように箱舟の中に入り、世界を破壊した水に入るのではなく、箱舟に入ることによって本当に救われたように、あなたも儀式による文字通りの水ではなく、御霊を通してキリストの中に入ることによって本当に救われます。その箱舟は、ある種の堕落した天使が忠実な人々を脅かしていた時代に造られましたが、神はそれらの違反者を取り除かれました。そして聖霊の力によってイエスは、あなたが救われた十字架の勝利を彼らに宣言されました。聖霊は、罪あるあなたがたが神のもとに導かれるために、あなたがた不義な者たちのために一度死なれた義なる方を三日後に復活させて下さったのです。
第一ペテロ3:21, 20, 19, 18節 [逆順詳解訳].
以下は、より伝統的な訳です(説明のための注釈も付加されてあります)。
(18) キリストは、私たちの罪のために、正しい者が正しくない者のために、一度死んで、私たちを神のもとに連れて行き、[その]肉において処刑されましたが、御霊によって生かされたからです。(19) また、[キリスト]が牢獄(アビスのタルタロス)にいる[天使ら]の霊を訪ねて、[ご自分の勝利]を宣べ伝えたのも、御霊によるものでした。(20)これらの者達というのはノアの時代、箱舟が造られる間、神が忍耐強く待っておられた時、不従順であった天使たちのことです。この箱舟に『の中に入って』バプテスマされた、少数の[尊い]者たち、具体的には八人は、水を通ったが無事でした。(21)そして、あなたがたを救うのは、この真のバプテスマなのです(箱舟が「水による救い」をもたらした「のではなく」、彼らが箱舟の中に「バプテスマ」されることによって救われたように、わたしたちはキリストの中にバプテスマされることによって救われるのです)。それは肉の汚れを洗い流すことではなく、イエス・キリストの復活を通して清い良心を神に誓願することです(すなわち、悔い改めと信仰の結果、霊のバプテスマが受けられ、キリストと結合し、その結果として救われるのです)。
第一ペテロ3章18-21節
一言で言えば、この聖句は次のような点を指摘しています。1) 救いの鍵はキリストの犠牲である、2) その犠牲により、悔い改めとキリストとその復活への信仰によって救いが与えられる、3) その救いは御霊のバプテスマによって封印される、4) このプロセスで重要なのは水のバプテスマではなく、霊のバプテスマである。5) 水のバプテスマはただ体についている汚れを取り除くだけで、御霊のバプテスマこそが、私たちをキリストと一つにします6) ノアの箱舟はこれと類似しています。ちょうど人が信仰によって箱舟に入り(これが一種の「バプテスマ」)、「箱舟の中に入って」救われたように、私たちも信仰によって御霊のバプテスマによってキリストの中に入り、「彼の中にあって」救われるからです。このペテロの説明は、パウロの第一コリント1章17節(「いったい、キリストがわたしをつかわされたのはバプテスマを授けるためではない」)の話に通じるもので、適切な説明がなされています:水のバプテスマは何も達成し得ない-御霊のバプテスマこそが鍵なのです。この聖書の箇所を解釈する上で、注解者や解釈者、また一般の人達が抱えている問題の一つは、聖書がバプティゾ(baptize)を単に水に浸すという使い方をしていないことが非常に多いということを理解していないことです。例えば、パウロはペテロと同じように、第一コリント10章2節で、イスラエルの民は皆「モーセにつくバプテスマを受けた」と述べています。聖書が「バプテスマ」を文字通りの意味よりも比喩的な意味で書簡に多く用いていることを知らないために、多くの誤解や間違った聖書解釈を引き起こしています。多くの人は、水に捉われてしまっています。
第一ペテロ4章6節で、ペテロはこれと全く同じように、物質的な次元よりも霊的な次元や御霊の力の重要性について述べています。キリストが「肉において死に渡され」、「御霊によって生かされた」ように、全人類に対する第一の、そして最善の神の願いは、人々が「御霊によって」(「神からは」)永遠の命を頂くために、「肉において」(「人からは」)神の前に非難されるということを、この肉体を抱えている人生において悟るようになることなのです。
個人的なテストについての質問ですが、この聖句を理解したいというあなたの願いが示すように、主の御言葉を熱心に探求する思いを、主にあって持ち続けることを勧めたいと思います。主との関係に無頓着な人は、敵の攻撃を受けにくいというのは本当だと思います。本当のシオンへの道、キリストのために成長し実りある道を歩んでいる信者の場合、試練や試みは神が与えているというより、その人の信仰と信仰の深さを示すために神によって許容されているという場合が非常に多いのです。ヨブも、そのような特別な試練を受けることによって、神から最高の賛辞を受けたのです。厳しい状況下では、このような視点を持つことは、確かに難しいことですが、重要な視点です。私たちは天使に見守られ、主は、常に旅に同伴して下さっています。主は私たちの苦しみを知っておられ、それが何らかの形で主の計画の一部でないなら、それを許すことはないでしょう。私たちは地上の生き物ですから、ヨブがそうであったように(結局、彼でさえも忍耐を失ってしまいましたが)、時には何の善いものももたらすことがないような試練に、何の目的があるかなど正確に見抜くことができないのです。しかし、神はそのすべてを計画されています。私も自分の人生を振り返ってみると、ほとんど何もかもが私の期待通りになったわけではありません。しかし、神はいつも忠実で、(水の中をくぐることを予測していた時も)火の中をくぐることになっても、私を安全に導いて下さいました。私はいくつかの重要な場面で(それがすべての場面であったなら)神を信頼し、神がどのように(あるいはいつ)その解放を実現されるのかがはっきりする前から、神の慰めと神の解放への確信を経験することができ、祝福が与えられたと言えるのは嬉しいことです。私の希望と祈りは、御言葉と御霊の力によって、あなたが同じように慰められ、強められることです。私たちがこの世とその死の結末から本当に救い出して下さる方、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストにおいて、神があなたに迅速かつ祝福された解放を与えて下さいますように。
われらがあなたの勝利を喜びうたい、われらの神のみ名によって旗を揚げるように。主があなたの求めをすべて遂げさせられるように。 (詩篇 20篇5節)
以下のリンクもご覧ください。(↓以下は英文)
Is baptism necessary for salvation?
Is water baptism required for Christians today?
Foot-washing, Bitter Herbs, Baptism, and Borrowed Faith.
The baptism of the Holy Spirit as distinct from speaking in tongues.
An Extended Conversation about the Baptism of the Holy Spirit.
Sin, Baptism, and the Book of Revelation.
Does baptism play a role in being born again?
私たちの愛と忠実な救い主イエス・キリストにあって
ロバート・ルギンビル
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