主イエス・キリストの誕生について
「質問と答え」
からの抜粋翻訳
ロバート・D・ルギンビル博士著
質問 #1
こんにちは、ボブ。
私の理解では、イスラエルは冬になると寒くなりますし、「宿屋に場所がなかった」ということは、かなり日が暮れた時間帯だったことを示しているように思えます。私の理解では、その時点でマリヤはすでに産気づいており、出産はほどなく起こったということになります。もしそうだとすれば、真冬に生まれたばかりの新生児にとっては非常に過酷だったはずですし、羊飼いたちが12月に野外で羊の群れを見張っているとは考えにくいように思います。せいぜい飼料を与えるために一時的に外に出る程度ではないでしょうか。群れはより避難しやすい場所の近くに集められていたはずです。少なくとも、こちら(私の住んでいる地域)ではそうです。
福音書の記事からは、冬を思わせる描写をまったく感じませんし、もし真冬であれば、そのことが言及されていてもおかしくないと思います。あなたが提示してくださったリンクも、話題が変わるところまでは読みましたが、12月生誕を示すような記述は見当たりませんでした。イエスが12月、あるいは冬に生まれたと考える根拠は何でしょうか。私の読み方が足りなかったのでしょうか。それとも、注意深く読めていなかったのでしょうか。
私は、異教的な木や、赤い服を着た太ったコカ・コーラのコマーシャルに象徴されるようなクリスマスは、あまり好きではありません。私にとって祝うべきなのは、キリストの「生き方」そのものです。しかしまあ、年を取ってだんだん偏屈になってきているのかもしれません。復活祭も同様に異教の祭りと時期が重なっていますし、クリスマスは子どものための祭りのように感じています。
主にあって。
回答 #1
この問題について私が行ってきた研究から判断すると、12月生誕である可能性はかなり高いと考えています(リンク参照)。あなたの論理は非常に筋が通っていますが、その議論は一つの誤解に基づいています……そしてそれは、文化的な「クリスマス像」から生じている誤解でもあります。
主は馬小屋でお生まれになったわけではありません。もちろん、仮にそうであったとしても何ら問題はありませんが、聖書はそう述べてはいません。「飼い葉桶」(ギリシヤ語 phatnē)とは、家畜の餌を入れるための桶のことです。宿屋にはきちんとした寝台がなかったため、代わりに木製の、ちょうど揺りかごほどの大きさと形をした容器が用いられたのです。これは確かに、主の誕生の謙遜さを示していますが、皆の注意を引きつけるような動物だらけの情景といった文化的付加物とは無関係です(悪しき者がこの誤解を広め続ける理由の一つがそこにあるのでしょう)。この点については、より詳しく説明したリンクがあります。「飼い葉桶であって馬小屋ではない」という点です。
イエスにあって。
質問 #2
こんにちは、ボブ。
揚げ足を取るつもりはありませんが、私の問題意識は12月、つまり真冬の生誕という点にあります。「飼い葉桶」の説明や「宿屋に場所がなかった」という点については、あなたの教えを受け入れています。しかし、真冬に羊飼いたちが野外で羊の群れを見張っているという点が、どうしても引っかかります。あなたが示してくださったリンクの中には、その点を正当化する説明は見当たりませんでした。
テキサス中部は、ベツレヘムより赤道に近いと思いますが、それでも今年は数回、氷点下になりました。そんな中で羊を見張るのはかなり過酷ですし、羊たちもおそらく、可能な限り身を寄せ合い、寒さをしのいでいたでしょう。こちらの鹿でさえそうです。家の近くに彼らの寝床があります。私は当時の文化について聖書から読む以上のことは知りませんが、それでもなお、真冬だったというのは考えにくいように思えます。
東方の博士たちと違い、羊飼いたちは誕生直後に訪れています。彼らは寒さを避けて身を寄せ合っている最中に、天使たちの顕現を受けたのでしょうか。
私が求めているのは、真冬の生誕を「あり得る」とする聖書的根拠です。私はそれを知りません。私はずっと、ニケア公会議の後、ローマの「司教」が異教の信仰と結びつけるためにその日付を作り上げたのだと考えてきました。
しつこくて申し訳ありません。
イエスにあって。
回答 #2
いえ、全くしつこくなどありません。むしろ、あなたがこれほど理性的な方であるからこそ、私としてもできる限り納得のいく答えを差し上げる責任を感じています。
まず否定的側面から言えば、ベツレヘムの気候は地中海性気候です。12月の平均気温は摂氏7度から15度ほどです(古代では、以後2000年にわたる森林伐採が進む前で、さらに温暖だった可能性もあります)。ルカ福音書は天候について何も述べていませんし、羊の囲いがなかったとも書いていません。「野宿していた」と訳される動詞 agrauleō は、単に「屋内にいなかった」という意味です。私が調べ得た限りでは、現在でもこの地域のベドウィンは冬に羊を放牧しています。したがって、ルカが描写する状況が11月や12月であったとしても「不可能だった」とは言えません。
次に肯定的側面ですが、リンクで説明したとおり、イエスは公生涯を始められた時「およそ三十歳」でした(ルカ3章23節)。また、イエスの公生涯が三年半であり、ヨハネの働きと一年ずれて始まり、春に終わったことも分かっています(バプテスマのヨハネとイエスの公生涯の年代比較表参照)。つまり、公生涯は秋に始まったことになります。そうすると、ルカが「およそ三十歳」と表現したのは、主が西暦29年の秋に三十歳に極めて近かったが、まだ完全には達していなかったからだと考えられます。これは、誕生日が初冬にあったことを示唆します。
さらに、年の後半という時期は、ヨセフとマリヤが年内に登録を済ませるため、急いでベツレヘムに向かわねばならなかった事情とも合致します。登録の年を逃せば、現代で言えば(米国の場合)4月15日までに確定申告をしないのと同様、いやそれ以上に深刻な結果を招いたでしょう。ヨセフはおそらく、出産がもう少し早く起こり、その後に移動できることを願っていたはずですが、それが叶わないと分かった時点で、マリヤがまだ出産していなくても急がざるを得なかったのです。
総合的に考えると、12月、あるいは11月下旬という時期が最も可能性が高いと私は考えています。他のシナリオでは、例えば9月生誕とすると、洗礼時に主がすでに三十歳、あるいは二十九歳になっていたことになり、証拠と合わなくなります。
もちろん、これは羊飼いたちが寒くなかったという意味ではありません。羊飼いという仕事は、牧歌的な詩情とは裏腹に、非常に過酷で危険な職業です。だからこそ、主はダビデの訓練の場としてそれを選ばれたのでしょう。
さらに議論できることを嬉しく思います。
イエスにあって。
ボブ・L.
質問 #3
こんにちは、ボブ。
とても良いお答えでしたし、納得できました。ありがとうございます。
まだ疑問は残っていますが、今度はペレグとニケヤ公会議についてです。ペレグについては、以前あなたが私のために説明してくださったと思うのですが、その記憶は今や薄れ、いくつかの技術的なトラブルもあって失われてしまいました。まずは自分でももう少し調べてから、できるだけ整理された質問をしたいと思っています。
天候のことを考慮すべきだったと気づきました。2021年2月の「テキサス大寒波」とは違い、今年は異常に暖かいです。2月の最高気温は概ね摂氏15〜21度程度で、今月は摂氏25〜30度前後に達しています。南部の海沿いでは、冬の卓越風は海から吹いてきますが、海は一般に陸地よりも暖かいものです。私はイスラエルに行ったことはありませんが、あなたの最新の説明を読んで、すべてが腑に落ちました。ありがとうございます。クリスマスのアシェラの木や、太りすぎたコカ・コーラのセールスマンに、少し過剰反応していたのかもしれません。
主にあって。
回答 #3
クリスマス――聖書には存在しない「祝日」――が、ローマのサトゥルナリア祭に沿った形で発展してきたのは、偶然ではありません。ローマ・カトリック教会が定めたその日付は、事実上、サトゥルナリアと一致しています。これは、あなたが指摘しているとおり、当時広まっていた「キリスト教を異教文化に同化させる」流れの一環です。
イエスにあって。
ボブ・L.