「不従順な預言者」オーディオクラスへの追補:
オーディオ・クラスでは不従順を犯す二つの事例を取り上げています。ひとつは民数記22章に出てくるバラム、もう一つは列王記上13章に出てくる神の人(若い預言者)と老いた預言者の話です。
列王記上13章には、ヤラベアム王が北イスラエルを支配して、民衆に拝むべきではないものを拝ませていて、若い預言者(神の人)は、まだ神への正しい礼拝がなされていたエルサレムのあるユダからやって来たことが記されています。
<当時は、神殿があるエルサレムでの礼拝がユダヤ人に求められていました。せっかく二つに分割され、自分が北イスラエルの王となれたのに、礼拝のために民衆がエルサレムに行き、ユダに住み着いてしまうのを止めされるために、自ら、礼拝場所を自分のところに築いたのです。そうすれば、礼拝のためにエルサレムに行く必要はないとだろうと思ったからです。これは、その当時の神の戒めに背くことでした。しかし、ユダヤ人が待望していたメシアが現れた時、イエスは、サマリヤの女性にむかって(サマリヤではゲリジム山が彼らの礼拝場所でした)、「この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4章21節,24節)と語られたように、礼拝の場所は、神殿や宮ではなく、どこででも、霊とまことをもって礼拝するようになると言われました。しかし、当時は、エルサレムの神殿で、正しく任命された祭司のもとで礼拝することになっていました>
北イスラエルには、この老預言者がいたのに、どうしてユダからわざわざ若い預言者が、ヤラベアム王を戒めるために、預言のメッセージを語りに来なければならなかったのでしょうか?おそらくこの老預言者は、かつて神に仕えていたようには、仕えるのを止めてしまっていたのかもしれません。その時神の使命を果たしている若い預言者に対して老預言者が欺いたのは、嫉妬心からだったかもしれません。
いずれにせよ、聖書は、かつて従順な神の僕であっても、今不従順になってしまった者について神がどのようにされるかを、不従順を犯した若い預言者の結末を通して教えています。「義人がその義を離れて、罪を犯すならば、彼はこれがために死ぬ。」(エゼキエル33章18節)
民数記22章に出てくる心が正しくなかった預言者バラムは、彼の乗っていたロバが助けてくれなかったら、主の使いの抜身の剣にあやうく切り裂かれるところでした。彼の預言には、イスラエルが神の選んだ特別な民であること、また終りの時に起こる事柄など、大切なことが含まれていましたが、彼が一時的にでも、ミッションを果たすことが出来たのは、ただ神の憐れみであったに違いありません。
ミッションを達成しても、心が正しくないなら、神に喜ばれません。だから、イエスの弟子たちも二人づつ使わされて、福音を伝え、悪霊を追い出し、病をいやして、興奮して帰ってきても、イエスから次のように戒められました:
霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろあなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。(ルカ10章20節)
神は、私たちの達成を気にかけられません。天地を造られた神は、必要とあればおひとりで、何でもおできになります。主は、私たちの心を見ておられます。イエス・キリストの十字架の犠牲によって贖われた私たちが、その神によって示された聖なる愛に対して、どんな反応、どんな心の状態であるか、また主に対して忠実であるかを見ておられるのです。
ヤラベアムの罪は、民衆を自分のところに留めておくために、代替えの宗教儀式をもって、民衆のご機嫌取りをして、ここで礼拝しているなら自分たちは、神に受け入れられていると欺くものでした。
(26)…ヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家にもどるであろう。(27)もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。(28)そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。(29)そして彼は一つをベテルにすえ、一つをダンに置いた。(30)この事は罪となった。民がベテルへ行って一つを礼拝し、ダンへ行って一つを礼拝したからである。(31)彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を祭司に任命した。(32)またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。(33)こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼はイスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。 (列王記上12章25-33節)
民数記の「バラム」という名前の語源について興味深い説明が「来たる艱難期:第2部「七つの教会」(ロバート・D・ルギンビル博士著)の130頁の脚注にあります。
<黙示録2章のベルガもにある教会に対する悪魔の攻撃についてのメッセージから:>
…バラムの名前も(「ニコライ宗の者」と同様に)同じ語源を持っています。バラムの名前を構成する二つの要素に、ヘブル語の「主」(バアル)と「民」(アム)を見ることができ、「民が主(あるいは神)である」という潜在的な意味があります。
<同じく同著129頁に>
「ニコライの者」という言葉は…「人々」(laosラオス)と「征服する」(nikaoニカオ)を意味するギリシャ語から構成されており、(エペソの場合と同じように)偽り教師たちが、聖書の真理よりも民衆の意見の優先を宣言していることを表しています。<引用終わり>
信仰の歩みをするに当たって、個人にとっても、教会にとっても、人から受け入れられ、行為を得ていたいという誘惑と妥協(容認)は、悪魔の入り口となります。人からのほまれによる影響は、信仰を保って進む者にとって妨げとなります。
わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。 (ヨハネ5章43-44節)