一人ひとりに対するユニークなアプローチ
以上、ヨハネ一章の中にはこのように最初の5人の弟子たちとイエス様との出会いが記されています。それぞれに対するイエス様のアプローチの仕方は、とても興味深いと思います。それぞれのユニーク(独得)な個性、またちょうどその時の状況に合ったアプローチは、まさに一人ひとりを正確に深くご存知である神様のなさることです。
それはこの使徒たちに限らず、私たち一人ひとりに対しても言えることだと思います。これらの五人の弟子に主が呼びかけられた時のように、今も、主が私たちに呼びかけられるタイミングと方法があります。その主の呼びかけを聞いた時、これは自分個人のための特別な呼びかけだと気づき、臆病になってためらったり、この世の思いが耳を塞いでしまうことがないように、イエス様の呼びかけについて行くことができますように。
天国の門であり羊の門であるイエス
時代の終わりには、霊の世界と物質の世界がもっと溶け合うようになるということを、聞いたことがあります。それが預言であったのか、誰かが言っていたことだったのかどうかはわかりませんが、とても深い意味があるように思えます。
神がお造りになった世界は、色々な次元の世界が重なりあって、存在していることは、聖書からもわかります。
パウロは、「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである」(第二コリント12章2節)と語りました。第三の天があるということは、第二も、第一もあるということでしょう。
あるクリスチャンは、第三の天は天国、第二は物質界を取り巻く霊の世界、第一は、私たちの存在している大気圏および宇宙世界と解釈しています。またあるクリスチャンは、エノクの書から、天は七つの階層(次元)に分かれていて、また黄泉(ハデス)の世界は4つの階層に分かれていると解釈しています。ちなみに黄泉とは、地獄のことではなく、神を信じていない人、神を知らずに死んだ人が行く場所で、その黄泉の中に、地獄に似たような場所や慰めの場所があるという解釈です。
この霊の世界の真相はさておき、そのような階層を設けられたのは、言うまでもなく創造者であられる神です。私たちの信じている神は、万物の創造者であられ、万物を無から創造された万能の神です。
…この神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神…
(ローマ 4章17節)
…万物の造り主である神…
(エペソ書 3章9節)
そして、創造者なる神は、秩序の神であるので、秩序をもって世界を造られました。
神は無秩序の神ではなく、平和の神である…
(1コリント 14章33節)
神は、すべての生物を創造される時、それぞれの種類に従って創造されました。キリンと象のミックス、犬と猫のミックスなどができないように、境界を設けられたのです。もしその種(しゅ)の境を作らなければ、この世は何の生き物なのか全くわからないもので溢れかえっていることになるでしょう。神が境界を設けられたのは地上に混乱、混沌が起こらないようにするためでした。
それと同じように、主は霊の世界と物質界の世界を分けられ、天使には天使の、人には人の領域を設け、その制限を越えることのないようにされたのだと思います。
しかし堕落天使は、自らに与えらえた制限の中に留まっているべきでしたが、神に反逆しそれを破りました。その結果、人間界にあらゆる混乱がもたらされることになるのです。
一方、最初に造られた人間のアダムとイブは、罪に汚れぬよう、神からエデンの園にある善悪を知る木からは取って食べてはいけない、という戒め(制限)を与えられていたのですが、堕落天使の誘惑に負けてそれを破りました。彼らは神の言葉ではなく、堕落天使の言葉に従ってしまったのでした。以来、私たち人間に罪が入り、神から離れてそれぞれが自己中心に生きるようになり、その結果、あちこちに人間関係の摩擦や問題が渦巻く世界を作り上げてしまいました。
しかし、万物を創造され、また所有しておられる神は、その罪からの救いのために、この地上の世界が天の世界につながるための門を提供されました。その門がイエス様であるのです。それは私たちが、以前アダムとイブが持っていた神との交わりに与かることができるよう、私たちを招くためでした。
イエス様は、ご自分のことを、「私は羊の門」であると言われました。そのことについて語られているイエス様の言葉を見てみたいと思います。
よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼である。
門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
(ヨハネ 10章1~11節)
イエス様は、「わたし(の門)をとおってはいる者は救われ、また出入りして、牧草にありつくであろう」と言われました。羊はオオカミなどの天敵を心配せずに安心して眠ることのできる囲いに入る際、門を通ってしか入れません。同様に、人が祝福と命に与かることのできる天の御国に入るには、門を通ってしか入ることができません。そしてその門を入るには、条件があります。それは主を信じ、罪赦されているという条件です。神との関係が断たれた状態、罪を抱えた状態では、天の御国に入ることができません。私たちは罪の赦しに与かる必要があるのです。神の赦しは、天国に入るための必須条件です。それはイエス・キリストが私たちの罪の赦しのために十字架で血を流してくださった、それを信じることで与えられます。そういうわけでイエス様は、ご自分のことを「羊の門」と言われたのです。この門を通る以外、つまりイエス様のあがないを信じて救われる以外に天国に入る道はないのです。
イエス様がこの話をされたのは、パリサイ人たち、イエス様を救い主と認めず、律法を守ることによって自分の力で義とされ救われることが出来るとする人たちに対してでした。
「羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。」「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」とイエス様は言われましたが、これは彼らのことを指して言っていたのす。つまり彼らはイエス様によってではなく、律法によって救いを得られると信じているばかりか、それを人々に教え指導していました。そしてイエス様の話を聞こうと集まっている人々の前でイエス様を陥れようと様々な議論を投げかけ、最後には亡き者にしようとした人々でした。それは彼らがさまよえる人々のことを思ってしていたのではなく、自分達の地位と名声の保持のため、自分達が人々から尊敬と誉れを受けるために他ならなかったのです。
「これらの盗人は、羊のためではなく、滅ぼし、盗むためです。」とイエス様が語られた通りです。
しかし、今でも、イエスという門を通らずに天国に入る道があると説く人々がいます。むしろますますそれが盛んになっています。それは神に背く悪霊共が、当時のパリサイ人の背後で働いていたように、今も、イエス様を知らない多くの人々を惑わし利用しているからです。人が作った宗教、霊媒、まじない、迷信、そしてあからさまな悪魔崇拝など、人々に命を与える天国の門とは反対に滅びへと導いているのです。
黙示録には、この時代の終わりに、底知れぬ穴が開かれることが記されています。
第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。 そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。
(黙示録 9章1~2節)
悪魔は今まで以上に、人を欺き滅ぼそうと底知れぬ穴からこの地上に軍勢を送りこんでくるでしょう。それに対抗すべく、私たちはイエスを通して天の力、御使い、天の軍勢にアクセスすることがますます必要になってきます。イエス様こそが、羊が豊かに命を受けるために、ご自分の命を捨てられた方です。どうか、この羊飼いであるイエス様としっかりつながり、霊を識別し、悪とその誘惑を避け、神が与えられた命の豊かさのうちに生きることができますように。
愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。
(第一ヨハネ4章1~3節)
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
(ヨハネ 14章6節)
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