「ヨハネの福音書三章」 (2020年8月20日クラス)
<救うために来て下さった神の愛>
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
(ヨハネ3章17節)
これは非常に重要な節です。宗教というと、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、とどうしても規律に拘束され、絶えず裁かれているような感があります。実際私たちも、クリスチャンなのにどうしてこうなの? と、他の人に対しても自分に対しても、そういう律法主義的な態度になってしまうことがあるかと思います。正しくあることは大切なことではあるのですが、最も大切なことではないですし、救いとは関係のないことです。
イエス様は救いのために来られた、ということは、救いが必要な罪びとを招くためにこの世に来て下さったのです。自分は立派にやっている、と思い込んでいる義人を招くためではありません。そういう人は自分が救いが必要だとは思っていません。
福音書を読むと、イエス様はいつも律法学者やパリサイ人ではなく、民衆と交わりを持ち、特に人々から軽蔑され、社会からはじき出されたような収税人や罪びとたちと共におられました。そして自分が正しいと思っている律法学者やパリサイ人たちは、それを見て批判するのです。聖書にはそういう場面がよく出てきます。イエス様が弟子たちや収税人や罪びとらと食事の席についている時もそうでした。パリサイ人らは、弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。(マタイ9章11節)と言いました。彼らは罪びとと食を共にすると自分も汚れると考えており、自分を清く保つために、罪びとらとの交わりは禁じられ、食事の席を共にすることなど有り得ないことでした。いかに当時の宗教指導者たちが神の御心から外れていたかがわかります。彼らは罪びとを愛し神に導くのではなく、自分の正しさを誇り罪びとを裁く偽善者でした。
そのパリサイ人の言葉を聞いたイエス様は、彼らに次のように言われました。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
(マタイ9章12,13節)
この言葉は17節の言葉と通じるものです。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」これは罪びとを病人、イエス様を医者にたとえています。わかりやすいですよね。そして、『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』という言葉を引用していますが、これはホセア6章6節からの引用だと思います。
「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。 燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
(ホセア6章6節)
パリサイ人らは、律法を学び守ることには熱心でしたが、この大切な真理、神の御心をわかっていませんでした。私たちも誰かを裁いている時、また裁きそうになる時、この言葉をしっかり覚えていたらいいと思います。
イエス様は本当に優しいです。それはもちろん、人々からの人気や良い評判を得ようとしていたのはありません。イエス様は愛そのものである方だからです。イエス様は私たち罪人を愛され、救うためにこの地上に来て下さったのです。もしイエス様が裁きのためにこの地上に来たのなら、誰も恐れて近づくことはできません。しかし、イエス様は救うために来られたので、罪びとでも幼子でも誰もが、気兼ねなくイエス様に近寄れたのです。
イエス様は、罪びとを受け入れて下さいました。私やあなたをもです。そして、私たちがまだ罪びとであった時に愛して下さいました。私たちは、罪びとであった時、どんな状態だったでしょう? 他の人を批判したり悪口を言ったり、悪意や恨みを抱いたり、絶えず人と比べて自分を誇ったり落胆したり、人を傷つけ見下したり、不平不満を口にし、自己中心に生きていました。イエス様は、このような罪びとを切り捨てることはなさいませんでした。むしろ、救うために、私たちの罪の代価を払い十字架で死んでくださったのです。すごい愛です。
私たちクリスチャンもこのイエス様のようになりたいですよね。いつもイエス様を仰ぎ見て、イエス様の愛を注いで頂くなら、クリスチャンは素敵な人になると思います。イエス様がこんなに素敵な方なのですから。
この途方もない愛を私たちが頂いているということは、その愛を受けるだけに留まらず、それによって変えられ、主が示して下さった愛に生きるようになるためです。
とは言え、私たちはこの肉体を持っていますから、自分のことや家のことなど世話しなければならないことがいくつもあって、他の人のために自分のできることなどほんのわずかのように思えてしまいます。しかし、そういう時にも、私たちは他の人のために愛を注ぐことができます。とりなしの祈りという最高の手段があります。今、この人やあの人と一緒にいることができなくても、そして直接会って助けることができなくても、その人たちのために祈り、神の愛に委ねることができます。もちろん、自分自身のことも祈って主に委ねることができます。
神の御霊のうちに生まれ変わった私や、この人やあの人をも、主は一歩一歩導き、最後まで見届けて下さいます。それを成し遂げる力を主はそれぞれに与えられます。そのような誠実な神の力に信頼して委ねて行く。とりなしの祈りとは、そういうことだと思います。
私たちのために命を捨てて下さったほどの神の愛は、その御手に愛する人を委ね、信頼するに十分過ぎるほどの愛なのです。
どのような形であれ、主が私たちを愛して下さったように他の人たちを愛することができますように。
主は私たちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。
(第一ヨハネ3章16節)
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