パウロのヘブル人への手紙

https://ichthys.com/Hebrews-intro.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

イントロ

概要

はじめに

I. 誰がヘブル書を書いたのか?

       1. 強調

       2. スタイル

       3. 匿名性

       4. ヘブル人への手紙2:3の反論

       5. パウロの作者であることの明白な証拠

II. ヘブル人への手紙の年代と時期

III. ヘブル人への手紙の背景

IV. ヘブル書の概要と言い換え

はじめに

パウロのエペソ人への手紙は、彼の書簡の中で「女王」と呼ばれることがあります。 だとすれば、筆者の考えでは、ヘブル人への手紙は「王」です。 聖書の本質的な教理を網羅しているという点で、新約聖書の中でこれを超える書物は他にないからです。 パウロはヘブル人への手紙の中で、神学からキリスト論、聖霊論から天使論に至るまで、聖書のさまざまな主題に触れており、その議論の過程で、キリスト教体系学の全領域にまたがる基本的な聖書の真理を完全に復習し、再教育しているようなものです。

神の御言葉のすべての部分、すなわち「聖書は、すべて」、「教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益」(第二テモテ3章16節)です。 そのためだけでも、ヘブル人への手紙の研究は有意義な試みであり、教義上のトピックを幅広く網羅していることは、重要な基本的真理を思い起こさせる上で特に有用です。 同時に、後述するように、ヘブル人への手紙は終末論的な問題に特に焦点を当てているため、「特に、『その日』が近づいているのを見ている」現代の信者にとって、これは時宜を得た研究です(ヘブル10章25節; ローマ13章11節; 第一コリント7章29節; ピリピ4章5節; ヤコブ5章9節; 第一ペテロ4章7節; 第二ペテロ3章11-14節; 第一ヨハネ2章18節; 黙示録1章3節, 3章11節, 22章7節, 22章12節, 22章20節参照)。 ヘブル人への手紙は、当時のエルサレム教会の状況を扱っていますが、それは多くの重要な点で、また不気味なほど身近な点で、現代のラオディキア教会時代の状況に直接類似しています。

とはいえ、ヘブル人への手紙は少々難解で、誤解されることも少なくありません。その理由の一つは、信仰から離れ、律法とその神殿儀式に引き戻されたり、ユダヤ教グノーシス主義の環境に引き込まれたりしているユダヤ人クリスチャンに向けて書かれているからです。 したがって、パウロが、こうした問題を扱う手法は、一世紀当時の異邦人クリスチャンには理解し難しいものでしたし、なおさら現代のクリスチャン、とりわけ異邦人にとっては難解なものです。パウロは、(私たちの多くにとって)特異な枠組みに話題を組み入れていっていることに加えて、それが伝統的なものであれ、グノーシス派の修正された適用であれ、当時のパリサイ派の風潮の中で生きていたユダヤ人の信者らに「初期設定」である元の律法に戻るべきであるという圧力をかけていた当時の解釈に対しても、反論していることを念頭に置かなければなりません。

この本の内容をざっと読めば(後述の第Ⅳ部参照)、パウロが大きな関心を寄せているこれらの信徒たちの思いにおいて、それがどのように解釈されようとも(すなわち、伝統的であろうとグノーシス主義的であろうと)、キリストの優位性、中心性、そしてキリストが律法の成就であることを論証することによって、キリストがすべてのものの中心であることを再確認することに関心を寄せていることがすぐにわかるでしょう。 実際、ヘブル人への手紙の主要な目的は、律法がより優れたものに、つまり本物であるものに置き換えられていることを示すことです。すなわち、旧約に代わる新約、古い祭司に代わる新しい大祭司、陰によって覆われていたものが復活の神の子の輝かしいあらわれによって永遠の希望に置き換えられたことを示すことです。 要するに、ヘブル人への手紙は、パウロの時代のユダヤ人信者が後ろを振り返るのをやめ、イエス・キリストの栄光の光に目を向け始めるのを助けるために書かれたのものなのです。

<続く>