https://ichthys.com/Hebrews-intro.htm#4.The_Hebrews_2:3_Objection.
4. ヘブル2章3節の反論
さらに、「この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。」(ヘブル2章3節 新改訳Ⅳ)という記述は、著者<ヘブル人への手紙の著者>が地上での宣教の間イエスと共にいたわけでも、パウロのように復活した主から直接特別な啓示を受けたわけでもないことを示している。
ヘブル人への手紙2章3節が、他の人たちが「主を通して直接」特別な啓示を受けたと述べていることは、ヘブル人への手紙の著者が後に特別な啓示を受けなかったことを結論づけるものではありません。 ヘブル人への手紙は、教会では一般的に聖書の正典の一部とみなされていますが、その通りです。 しかも、著者が誰であろうと聖霊によって霊感されたイエス・キリストに関する特別な啓示がふんだんに盛り込まれています。
この書簡が含んでいる教理的真理についての熟知の深さを考慮すると、ヘブル人への手紙の著者のような人物がイエスの地上での宣教に個人的に立ち会わなかったという事実は、その人物がパウロでなければならないことをほとんど保証しているようなものです。 他の使徒たちを除外して考えるなら、他に誰がこのような手紙を書く知的、霊的資格を持っていたでしょうか?
しかし、NIV訳SBのヘブル人への手紙2章3節の解釈は、パウロが著者であることを否定しようとする解釈全ての典型のようなものです。 欽定訳聖書はこの箇所を次のように解釈しています:
(2) 天使たちによって語られたことばが堅固であり、すべての違反と不従順とが、正当な報いを受けたとすれば、(3)わたしたちが、これほど偉大な救いをないがしろにして、どうして逃れられよう。それは、初めに主によって語られ始め、主の言葉を聞いた者たちによって私たちに確認されました; (4)神はまた、御心に従って、しるしと不思議と、さまざまな奇跡と、聖霊の賜物とをもって、それらを証しされました。(欽定訳英語から直訳 ヘブル2章2-4節)
ギリシャ語本文を読む者なら誰でもすぐに気づくはずなのは、欽定訳や他のほとんどの訳が、上記の3節の2番目の前置詞句、すなわち「彼を聞いた人々によって」をひどく誤って適用していることです。 この句は「私たちに確認された」の後ではなく、その前に出ています。 さらに、文法的にも、この語句を、その後にある語句ではなく、その前にある語句と一緒にとらえる十分な理由があります<日本語では語順が逆なので、あまりこの著者が主張している英語の文法的なことは日本語訳にはうまく当てはまりませんが、意味に関してはこの著者が言っているように、日本語訳も間違って解釈されやすいものとなっていると思います>:
(3b) …その[救い]は、[以前に主に]聞いた人々(すなわち、教会の初期の前の世代、紀元30年代半ばから後半頃)によって、主を通してその最初のしるしを受けましたが、今や[現代の]私たち(すなわち、当時の教会の世代、紀元50年代後半頃)に確認されました。 (4)神[御父ご自身]、しるしと不思議とさまざまな[他の]御力の示しと、御心に適った聖霊の分配(すなわち霊的賜物)とによって、それを証しされたのです。(ヘブル2章3節後半-4節)
このように理解すると、「聞いた人々」とは、「主によって」ではなく、「主を通して」(すなわち、主の初降臨の時ではなく、ペンテコステの日の後、主の御霊によって十一人に力を与えられた主の働きによって)、主の昇天後、主の命令に従って教会時代の初期に救いのメッセージを広めた十一人とその同志のことです(使徒行伝1章8節; マタイ28章19節参照)。
多くの翻訳に見られる間違った語順の第二の問題は、4節の奇跡的な働きが「主の言葉を聞いた人々」に適用されるかのように思わせることです。 事実は、「今や、私たちに確認された」とあるように、パウロの福音宣教を受けた人々、すなわち、パウロ自身の手で聖霊が行ったさまざまな奇跡によって、救いの言葉が当時の教会時代において有効であることが「確認」されたのです。
従って、正しく理解すれば、この「私たちに対する」と特定されている、確認としての奇跡は、パウロが使徒であることの証拠です。パウロが行うように与えられたしるしに意図的に注意を喚起しているのですから(第二コリント12章12節; ローマ15章18-19節参照)、実際にパウロが著者であることの証拠となります。
<続く>
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