バプテスマについて 

私達を信仰にとどめてくれるもの、信仰によって歩んでいく力はみ言葉を深く学ぶと言う事から来ます。み言葉から離れては、成長はありません。離れてしまうと、儀式的になったり、習慣になってしまったりします。でも、信仰は神の言葉を聞くことから来るもので、生きた神の言葉につながる必要があります。

間違った土台の上に立っていると、聖霊がある一つのことを示していても、私たちは間違った基礎にとらわれてしまっていて、今語っておられる、生きた御声もキャッチできなくなるので、私たちはこうしてみ言葉の中に入ってみ言葉を吸収する時は、とても大切です。

 ヨハネ3章22節から最後のところまでを読みましょう。

「この後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在してバプテスマを授けておられた。」

 ヨハネの福音書4章2節を見ますと、「しかし、イエス自らがバプテスマをお授けになったのではなくその弟子たちだった。」とあります。

 ですから、イエス様自身がバプテスマをしていたというわけではなく、弟子たちがあげていたわけです。

 ヨハネ3章23節には「ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が沢山あったからである。」

洗礼者ヨハネがイエス様に会った時、イエス様のことを証してこう言いました。

 「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。」 (ヨハネ1:26)

 「あなたがたの知らない方」というのはイエス様の事ですね。ヨハネ1章33節を見てみましょう。

 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。 (ヨハネ 1:33)

 つまり、バプテスマのヨハネは水でバプテスマを授けていましたが、このイエス様こそが、聖霊によってバプテスマを授ける方だと言っています。

 ヨハネの3章24節~36節までを読みましょう。

そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。

ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。

そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。

ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。

 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。

彼は必ず栄え、わたしは衰える。

上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。

彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。

しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。

神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。

父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。

御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。 (ヨハネ 3章24-36節)

このバプテスマのことなのですが、方法に関しては、頭に水を垂らしてやる。全身が浸かるべきだとか多様な主張が各教派によってなされています。

 バプテスマのヨハネは水の洗礼をしていました。そして使徒たちもある時は、水でバプテスマを、水の洗礼をしていたわけです。そして今、多くの教会で洗礼式と言って、水につかる、あるいは「滴礼」とか、またあるところでは幼児洗礼というのをしているところもあります。それぞれ、各自見解、確信を持っていると思います。

 それで、今回は、私の洗礼についての個人的理解を分け合いたいと思います。そして益になるところがあったら、参考にして下されば嬉しいです。

 この洗礼に関して私は、内村鑑三氏の見解が納得いっています。海外でも似たようなことを主張している方々もいます。

このことについてもっと詳しく学ばれたい方はもうすでに、内村鑑三氏の洗礼についての主張についてひとしずくで配信したものがあります。また、翻訳した物も出版しましたが、ボブ・ルキンディルという人も、内村鑑三氏と非常に似ている主張をわかりやすく書いて下さっています。

 今日分け合う事も後でひとしずくで配信すると思いますが、今日はそのポイントを分け合いたいと思います。

 マタイの福音書の一番最後の節を見てみたいと思います。

 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(口語訳マタイ 28:19-20)

これを新共同訳で読みますと、

 「それゆえ、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け…」とあります。

「父と子と聖霊の名に入れる洗礼」、これはおそらく、文語訳もそうだったと思いますが、内村鑑三氏はこのことについて、日本語訳の聖書には名に入れると書いてあります。新改訳や口語訳はそういう風には訳してはいないのですが、「名に入れる」というのは意訳であると言っています。

 ギリシャ語の聖書の「ここの箇所では、『名にまで』とあるばかりである」とあります(ギリシャ語のエイスeis=にまで)。「まで」というのは、名前「に入れて」というよりも意味が強くなる。つまり、直訳するとこういう意味だと言っています。「万民の民を父と子と聖霊の名にまで、バプテスマし、これを弟子としなさい。」

 この「エイス」という言葉の使い方ですが、「エイス・アテネ」の意味は「アテネまで」、「エイス・トゥキョウ」となると、「東京まで」、という意味になるそうです。 また、内村鑑三氏によると、この「エイス」には三つの意味が含まれていると言うことです。

つまり、第一は方向を表す「にまで」。

第二は、「そこに向かっていく」動作の継続性。

最後に、目的地に示す「目的」を意味します。つまり、方向と、継続した動作と、目的を示すと言う事です。ちょうど私達が東京まで行きます、というのと同じ使い方なわけです。

 そうすると、「父と子と聖霊の名にまで、浸透させるバプテスマ」というのは、継続していることで、一回の儀式の事を言っているのではない、ということになります。「父と子と聖霊の名にまで」とは、「私たちは聖霊と父と子と一つになるまで浸透し続ける」という意味になり、それによって弟子となるわけです。

真の洗礼とは?

 これはリトリート参加者に配られた資料の一つです。教派により、「洗礼」についての解釈は様々ですが、これは聖書からとても詳しく説明されていると思います。

 「現代のクリスチャンに 水による洗礼は必要なのか?」(投稿日:2003年9月27日 http://ichthys.com

)から、英語を翻訳したものです。

質問:

 洗礼について疑問があります。教義にこだわる友人が、「新約聖書は、信者にバプテスマを受けるようにと一度も命じてない」というのです。私自身調べてみたところ、水による洗礼を受けるよう教えている新約聖書の箇所を見つけました。

すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。(使徒行伝2:38

そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい』。(使徒行伝22:16

 他にもバプテスマを受けるよう命じている箇所があります(使徒行伝10:48、マタイ28:16-20、1コリント1:17、エペソ4:5)。この命令は今でも当てはまるのでしょうか?

 回答:

 まず、この問題に関する聖書の箇所を見てみましょう。パウロが「キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、」(1コリント1:17)と述べたのはとても重要です。水による洗礼が間違っているとは教えていませんが、もしそれが義務であるなら、パウロの発言はとても奇妙に思えます。そしてエペソ4:5「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」からは、水によるバプテスマを否定しているということは言えませんが、しかし(イエス・キリストが一つしかないように)バプテスマは「一つ」であるとしています。これは、霊的な意味を持つバプテスマは一つしかないということを意味するはずであり、もしそうであるなら、熱心なクリスチャンなら誰も、水による洗礼を聖霊による洗礼より高く位置付けることはしないでしょう。

 水による洗礼は明らかに、恵みによる救い(エペソ2:8-9)を得るための手段や条件ではありませんし、そうであるはずがありません。さらに、ヨハネもイエスも聖霊によるバプテスマを待ち望み、尊重するよう語っているのに、なぜ水による洗礼を受けるのが義務であるはずがありましょうか? 

 初代教会では、確かに水による洗礼が義務づけられていました。しかし、エペソ教会の時代は、霊的成長の停滞期で、結果的に12年で途絶えてしまいました。そのため、この初代の過渡期の習慣に教義を基づかせるのは、大きな間違いです。

 また、歴史的報告だけに教義を基づかせるのも危険です。初代教会の使徒たちの、水による洗礼を受けるべきという認識は、十字架と復活、そして聖霊によるバプテスマに対する不完全な理解から生じているのです。

 ペテロでさえ異邦人への救いについて指導を必要としていたので、たとえ使徒たちが水による洗礼を授けていたとしても、それが実際に命じられていたからであるとは限りません。

 使徒行伝22:16も、アナニヤの(不完全な理解による)考えを示しているだけです。

 ではマタイ28:19-20を見てみましょう。

 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28:19-20)

 この聖句が実際に命じているのは弟子を作ること、つまり、イエス・キリストについて証しをすることです。「バプテスマを施すこと」と「教えること」はそれをするにあたって役立つ事柄に過ぎません。私たちを神とキリストに結びつけるのは御霊によるバプテスマであって、私たちのうちに聖霊が宿ることがその保証です。水によるバプテスマはどちらとも関係ありません。ですので、マタイ28:19のバプテスマへの言及は、1コリント12:13の「一つのからだとなるようにバプテスマを受け」ることを意味するのです。

 父の御元に帰る前、キリストは弟子たちにこう述べました。

「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。(ルカ24:46-49)

そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。(使徒行伝1:4-5)
彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(使徒行伝1:7-8)

 水による洗礼は、悔い改めとキリストと一つになるためのバプテスマを意味します。しかし主は真の悔い改めと真の聖霊がくだることについて話しています。使徒行伝10:39-46には、ペテロの話を聞いた異邦人たちが、すぐさま悔い改め、福音を信じ、聖霊が彼らにくだったとあります。これに対してペテロは「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、誰がこばみ得ようか」(使徒行伝10:47)と言いました。すでに悔い改め、信じ、救われ、聖霊によるバプテスマを受け、イエス・キリストに作り変えられた異邦人たちが水によるバプテスマを受ける意義はなんだったのでしょう? 少なくともこの場合は、ただの補足的な儀式にすぎないように感じられます。

 後になって、ペテロはこの問題についてより良く理解するようになり、このように語りました。「そしてあなたを救うのはこの真のバプテスマである。肉の汚れを洗い流すことではなく、イエス・キリストの復活による正しい良心を神に願い求めることである。」(1ペテロ3:21

動物の生贄を捧げることが、イエスの死を無意味なものにするように、水による洗礼は、御霊によるバプテスマを否定することになります。初代教会の弟子たちは、まだ理解が浅かったために儀式を続けていたことが許されるかもしれませんが、私たちが恐れから行っているなら、良いはずがあるでしょうか?

 水による洗礼が不要だと私が思う最大の理由は、それが救いに対して安心感を与える手段だからです。この安心感を与える水による洗礼が、いつも組織に利用されていることを考慮すると、とても危険だということがわかります。実際に、水による洗礼に関する議論や誤った教えは、多くの者を信仰から離れさせました。ある組織に入るために水によるバプテスマを受けるのは簡単ですが、主が導くところに従うのは難しく、信仰が必要です。

 バプテスマのヨハネはこう語りました。「わたしは水で…おまえたちにバプテスマを授けている。…このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)実際、イエスは何度も聖霊によるバプテスマを強調しています(ルカ4:1811:1312:12、24:48、ヨハネ7:3914:15-26、15:26、16:5-15、20:22、使徒行伝1:4-8など)。使徒書簡も、水によるバプテスマではなく、聖霊によるバプテスマに重点を置いています。

 ということでキリストの弟子は、主が強調する聖霊によるバプテスマを重視すべきだと思います。

 ボブ・ルギンビル

 *訳注:1ペテロ3:21を除く聖書の箇所はすべて口語訳。

 < 「現代のクリスチャンに 水による洗礼は必要なのか?」の引用終わり>

「バプテスマの語源」

 <国々のバプテスマ (2019年リトリートのクラスノートより): 

これらの皆さんに分け合っている事柄は、以下の著書を参考にしています:

「EKKLESIA—by Ed Silvoso」

「EKKLESIA RISING by Dean Briggs」

「Leaving Church Becoming Ekklesia by

Tim Kurtz」「Return of the First Church by John Fenn」>

イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民(ギリシャ語ethnos =英語nations ⇒国々)を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し(baptizontes)、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイによる福音書 28章18-20節)

  この聖句で、「国民を」とありますが、英語ではnationsという言葉が使われています。原語のギリシャ語ではエスノス(ethnos)これも「国」が当てはまります。では国々にバプテスマを施すとはどういうことでしょうか? これは、このバプテスマを施すということを水と関連させて解釈するなら、理解し難いことです。

 国をどうやってバプテスマすることができるのでしょうか? 国ごと洗礼できるでしょうか? 

 これは、日本語では、国民になっていますが、英語では、ほとんどすべての訳が「国々(nations)」となっていますが、それが原語のギリシャ語の意味をもっと正確に反映しています。

 そして「バプテスマを施す」というのは、ギリシャ語では、「バプティゾンティス(baptizontes)」という言葉です。

 ところで、このまず、ギリシャ語が英語に訳される前には、まず、ラテン語に訳されたのですが、この「バプティゾンティス」という言葉を訳すのが難しかったので、「バプティザーレ」と音訳されたのです。英語の「バプタイズ」というのは、この言葉からです。

 「バプティゾンティス(baptizontes)という言葉には、二つのギリシャ語の意味が込められています。「バプトー(bapto)」という意味と「バプティゾー(baptize)」という二つの意味が込められていたので、それを一語のラテン語に訳すのに難しかったのです。ジェロメという人がギリシャ語からラテン語に訳す際に、ただ音訳してバプティザーレとしたのです。

 ところで、元々の「バプティゾンティス(baptizontes)」の言葉ができる元となった二つのギリシャ語が関連して載っている文献の発見がありました。

紀元前200年前の物理学者であった、ギリシャ人、ニカンデルという人が漬物の作り方について、説明していた文が見つかったことが、これらの意味を理解する助けになりました。それは漬物の作り方について説明していたものでした。

野菜を柔らかくするために、まず煮立ったお湯に浸すという言葉にバプトー(bapto)が使われています。たとえば、きゅうりの漬物を作る際に、その硬い皮を柔らかにするために、まずお湯に入れるというのに、バプトーという言葉が使われています。その後に、今度は、酢に漬けておくというのにバプティゾー(baptizo)が使われているのです。

 バプティゾンティスというのは、この二つの言葉でできています。

 この「バプティゾンテス」が「バプティスマを施す」という意味で使われていますが、イエス様がこのバプティゾンテスの言葉を使われた時には、どのような意味で語られたのでしょう?

 その二つの意味の一つ、「バプト」の意味する、聖霊によって、満たされることです。

イエス様を信じると、聖霊はその救いの保証として与えられるとあります。聖霊を受けているというのは、救いの保証です。

 神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。 (2コリント人への手紙 1:22)

 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。 (2コリント人への手紙 5章5節)

 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。 (エペソ書 1章14節)

イエス様を信じた時に与えられる聖霊は、神の国をつぐ者となる約束の保証として最初に与えられるもので、バプトーに当たるものです。

  そして、「国々にバプテスマを施し、国々を弟子として…」とあるマタイ28章19,20節の全体の文章の流れを見るなら、主の意図しておられることは、国々に神の教えを浸透させて、イエスの弟子とする、つまり神に従う国にしなさい、ということです。

 「バプティゾー(漬ける)」という言葉の意味は、主の教えに浸し、漬けられて、全く新しくされた者となるように、ということです。

そして、このバプティゾーという言葉は、状況や状態の永久的な変化に帰結する過程を表現するために用いられた言葉で、漬ける、沈める、などの意味があります。

  つまりそこに聖霊の働きによる影響(バプトー)と共に、イエスの教えを浸透させること(バプティゾー)の二つがあります。ところで、それは国を相手にするようにとイエスは言っているのです。つまり国々全体が変わるようになることを目的として聖霊の満たしとイエスの教えを浸透させることです。

  そしてその目的に到達するには、過程を踏む必要があります。聖霊のバプテスマは一時的なバプトーですが、教えを浸透させることは、経過、過程です。つまり私たち一人一人の存在が聖霊の働きによって、パン種(酵母菌)のように全体に影響を与え(膨らませ)ているのです。それは私たちが、自分の非力を感じていても、聖霊の助けによって、私たちの一歩一歩の証によって、全体が変わりつつあるのです。そして歴史を振り返ってみると、こうしたクリスチャンたちが、世界を変えてきましたし、彼らによって福音が伝えられてきたのです。

聖霊によるバプテスマこそ

このクラスをまとめている際に、ちょうど、バプテスマについての質問がありました。

ある人は、マルコ16章16節から救いにはバプテスマが必要だと言っているそうです。その人たちは、カトリックの人たちなので、おそらくそれは、水の洗礼をしないと救いにあずからないということを主張しているのかもしれません。

  信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。(マルコによる福音書 16章16節)

  この聖句には、「バプテスマを受けない者は罪に定められる」とは書かれていません。マルコ16章16節に続く節はこうです。

  信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。 (マルコによる福音書 16章17-18節)

これらのしるしは、聖霊の受けた結果であると私は解釈します。

  聖霊の与える賜物として、新しい言葉を語ったり、癒しをすることができるからです。それらは聖霊の賜物です。ですから、マルコ16章16節で言われている「バプテスマ」は聖霊のバプテスマです。

  ところで、救いの保証として聖霊が与えられるので(エペソ1:14, 第二コリント1:22, 第二コリント5:5 参照)、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)は、信じたら、聖霊のバプテスマを受ける(救いの保証である聖霊を受ける)、救われるという意味で、そこに水の洗礼を受けないといけないということではない、ことを明らかにしておきたいと思いました。

  ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。 (使徒の働き 10章44節)

聖霊が神の国を継ぐ保証であるならば、水の洗礼を受ける前にこれらの人たちに聖霊がくだったということは、水の洗礼なしに、人は救われる(神の国を継ぐ者となる)ということであると解釈しています。

  水の洗礼式をしなければ、救われないというと、それも行いによって救いを得るということにつながります。証のために行ったり、また自分の信仰の表明としての手段の一つとしてそうするように導かれているなら、それをしたらいいと思いますが、救いのためにする必要はないのです。

 パウロは、水の洗礼に強調を置かなかったと言っています。

わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。

もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。(第一コリント 1章14-17節)

パウロは自分の神よりの使命は、福音を宣べ伝えるためであり、バプテスマ(ここで言っているのは水の洗礼式)を授けるためではなかったからだと言っています。かえって、そうして水の洗礼が真の福音の妨げにさえなると思っていたことが上記からわかります。

 人は、簡単に儀式や形式によりかかりたくなります。私達は、キリスト以外のどんなものにもよりかかるべきではないのです。洗礼を受けた、受けていないに肉の人の思いは簡単に捉われてしまいます。しかし、人のどんな義のように見える行いも、私達の霊の汚れを洗い清めることはできません。

 また、何かの組織やグループ、教派に属することにも、あるいは清めの儀式にもよりません。それは全て霊であり、人はただキリストの義によりすがることによってのみ、神のよしとされる義のうちにいることができます。

  なぜ、パウロが気を付けて、むしろ洗礼をしないようにしていたかを考えてみることは、彼の書簡全体を通して彼が言おうとしていたことをもっと理解できるようになるのではないかと思います。

 彼は古いユダヤの伝統的な宗教家たちが、イエスがキリストであると認めず、その古い伝統的なしきたりに浸って自らを義としていたことと戦っていました。

  彼の内には、ただ神の恵みによってのみ神に受け入れられるというこの福音をどう分かってもらえるのかということが、心にあったと思います。それで彼はその面で助けにならないあらゆる儀式的なものを避けるようにしたのでしょう。

  確かに、ああ、この人も信者になった、とか、OO人洗礼を受けたということに、満足を覚える人達もいるかもしれませんが、そのようなことはキリストの信者でなくても、異教において多くあることです。

 エクレシアの一員となるためには、イエスを信じた者が、聖霊のバプテスマを受け、そしてイエスの教えに満たされ霊において成長することです。

 <ノートの追補>

 再び内村鑑三氏の「聖書注解のヨハネ伝」の70頁には、「ヨハネ伝は水の洗礼を教えない。その三章五節に『水と霊』とあるその水なる文字は取り除くべきものであるという

(Ref. ブルキット著:Gospel History and Its Transmission pg226)」と記されているのを

見て、さっそくこのその上記の本のページを図書館のデータからダウンロードして見てみました。そのページの註の直訳です。

  ヨハネ3章5節で水について言及している箇所の信憑性が問題視されている。レイク教授がその”Influence of Textual Criticism on Exesis”の論文の中で、ジャスティン・マーター(Justin Martyr)が、その部分を削除していることが明らかになっているとし、第四福音記者は、儀式の根底にあることについての教義を取り上げているのであって、その箇所では(霊のことを言っているのであって)物質的要素(つまり水のこと)は取り除けられるべきということを言っているのである。

<( )内の言葉は訳者の補足>

 おそらく、聖書の原本となる写本の段階の話で、初期の教父のジャスティン・マ―タ―の写した書のヨハネ伝には、その「霊と水とによらなければ」の「水」が省かれているということから上記の註の内容となっているのだと思います。

 <追補の終わり>

バプテスマ(三位一体の神の霊に浸され、漬けられる、あるいはこの三位一体の神との交わり)は、日々行われる必要があるということで、一回、神と儀式的な体験を持ったからもうそれでいいと言う事ではなくて、日々、信仰の歩みが続けられる、日々浸される必要があると言う事です。

  私たちは、私達自身のものではなくて、キリストのもの、神のもの、聖霊のものとなるまで浸透すると言う事、三位一体の神と一つになるということなのです。それによって、弟子としなさいと言う事です。つまりこれは、ほかの聖書の箇所を見てもすごく納得がいきます。たとえば、エペソの4章5節を見てみたいと思います。

  「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。」とあります。ここでバプテスマは一つと言っています。つまり、水のバプテスマ、御霊のバプテスマ、聖霊のバプテスマというのもありますから、どっちが一つなんだ。これはバプテスマは一つなんだよということです。

  明らかに、バプテスマのヨハネは水でしていましたが、イエス様が聖霊によってバプテスマを授ける方だと、バプテスマのヨハネ言っています。ですから、聖霊のバプテスマこそが大切なことなのです。そして第一コリントの1章14節から17節を読んでみましょう。

  「私は感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなた方の内のだれにもバプテスマを授けたことはない。それはあなた方が私に名によってバプテスマを受けたのだと誰にも言われることがないためである。最も、ステパノの家族の者にはバプテスマを授けたことがある。その他には誰にも授けた覚えがない。一体、キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を使わずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。」

  ここに、「誰も私の名によってバプテスマを受けたと言ってほしくない。」と言っています。よく、どこの教会で、洗礼を受けましたか? とか、だれだれ先生の名前でバプテスマを受けたとか、聞きますが、こういうものではないと思います。私たちは神と御子と聖霊の名の中に、浸る、この神と一つとなるために、私達自身の心を捧げる、神の御霊に浸していただく、これがバプテスマなのです。これは日ごとにすることなのです。一回水につかったからそれでいいと言う事ではないのです。そして弟子となっていくと言う事なのです。

では、どうしてイエスの弟子たちがヨハネの福音書の3章でバプテスマをしていますが、バプテスマのヨハネも水のあるところでバプテスマを授けていましたし、イエスの弟子たちもバプテスマをしていたのでしょうか? 何よりもイエス様ご自身が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのでしょうか? それではそこのところを読んでみたいと思います。

  マタイ3章13節から15節を読んでみましょう。

そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。

ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。

しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。

そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。 (マタイ 3章13-15節)

ヨハネが呼びかけたのは罪の悔い改めのバプテスマであると言われています。確かにそうです。しかし、イエス様は罪を悔い改める必要があったのかというと、そうでないのは明確です。イエス様について、「罪は犯されなかった」とあります。(へブル 4:15)

では、どうしてバプテスマのヨハネから、悔い改めのバプテスマをイエス様が受けたのでしょうか?

それについて内村鑑三氏の説明は、

  イエス様自身は、悔い改めは必要なかったのですが、周りのすべての人は悔い改めが必要だったのです。彼は罪人の見本となって、バプテスマのヨハネのところに来て、水をかぶりました。

  パリサイ人達はヨハネが神からの者とは認めてはいなかったので、彼らはバプテスマを受けてはいませんでした。イエスは、彼らが自分たちの罪を悔いて、罪から離れるという決意のためにすべきだったことを見本で示されたのです。

「今は、受けさせてもらいたい」という訳になっていますが、これはギリシャ語の言語から言いますと、「かまうな。」「かまわないで、いいから。」という言葉なのです。つまり、イエス様は自分をむなしくして、あなたたちがやっていること、神の前に悔い改めて、決意を新たにする事はいいことなんだよ、と謙ることの大切さを言っているわけです。

  でもこの水によって、すべての罪が許されると言う事ではなくて、本当の罪の許しというのはイエスキリストの十字架の贖いの血によって、罪許されるわけです。…血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。 (へブル 9章22節)

  イエス様が十字架に架けられて、血を流され命を捨てられた時に、全人類の罪のための贖いが成し遂げられのです。

  彼(イエス)は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。 (1ヨハネ 2:2)

  私たちはこれを感謝して受けるしかないのです。イエス様がその贖いの業を終えたなら、それは事実なのでそれを、受け入れるしかないのです。

 神様が全部して下った。そしてそれを受け入れるということは、つまり、神が、御子をくださるほど、肉の命を犠牲にするほど、私を愛して下さその愛を信じる道が私達に残されている道です。

 そして信じたら、その神と一つになるために聖霊に自分を明け渡して、イエス様の教えに従っていくという、これが日々浸る過程となります。神の御霊に自分をゆだねる。完全に浸透していただく。全く神のものとなっていく、それがバプテスマなわけです。

 <補足説明: ある人は、イエス様がバプテスマを受けたのだから、ただ彼の見本に倣って、私たちも水のバプテスマを受けたらいいということを主張しますが、彼にならうということは、そのようなことではないと思います。では彼が一生独身だったから、私もそれにならうべきでしょうか? そうではないと思います。それぞれ神に召された召しと任務があり、それに忠実になることが必要なのです>  

先に述べたギリシャ原語のバプテゾンテス、つまり神の霊に良く漬けられた漬物となる過程を日々経過するということです。

キリストの血によって罪赦され、神の御言葉の水によって洗われ、御霊によって新たにされるのです。そしてこのバプテスマによって、弟子となるのです。それは成長させて下さる神の御業であり、また造り変えて下さる御霊のわざです。わたしたちはみな、…栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 (2コリント 3章18節)

 …成長させて下さるのは、神である。 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。 (1コリント 3:6-7)

 使徒行伝の10章44節から48節を読んでみましょう。

ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、みんなの人たちに聖霊が下った。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。それは彼らが異言を語って神を賛美しているのを聞いたからである。そこでペテロが言い出した。この人たちは私達と同じように聖霊を受けたのだからには、彼らに水でバプテスマをさずけるのを誰が拒み得ようか。こういってペテロは人々に命じて、イエスキリストの名によってバプテスマをうけさせた。それから彼らはペテロに願ってなお、数日の間滞在してもらった。

 ペテロが人々にイエス様のことを証していたら、もう聖霊が下ってしまった。聞いた言葉を信じたからでしょう。それなら、どうして水のバプテスマが必要なのでしょうか? ガラテヤの3章3節を見てみましょう。「あなた方はそんなに物分かりが悪いのか、御霊で始まったのに、今になって肉で仕上げるというのか。」洗礼者ヨハネは、私は水でバプテスマを授けるがこの方は聖霊でバプテスマを授けると言ったわけです。そしてペテロがイエス様の事を証したらそれを聞いていた人たちに聖霊が下ったわけです。

 だったら、どうしてその後に水をかける必要があるのでしょうか? 

 ガラテヤ書を見てもわかると思いますが、これは当時のユダヤの国のその時代の風潮から理解できることです。バプテスマのヨハネによって始まった罪の悔い改めは、ユダヤ全土に知れ渡っていました。

 そしてイエスの弟子たちもバプテスマのヨハネの弟子でしたし、主ご自身もそうされたということから、弟子たちは自然と、その習慣を引き継いでいたことでしょう。ちょうどユダヤ人がイエスを信じて、律法によって生きる必要はもうないのに、なおしばらく割礼を施すことにこだわっていたのです。上述の神の言葉を聞いて信じた異邦人に聖霊が下ってしまって、あわてて水で洗礼を施したペテロの事例にもあるように、神は、信じる者に不必要な枷を与えようとはされないのです。

 イエスを信じるだけで、聖霊が下され、満たされるということです。ガラテヤ書には、ペテロが割礼を受けていない異邦人の信者とつきあっていたのに、割礼を重んじるユダヤ人が来た時、それらの異邦人から遠ざかったその偽善を見て、パウロは人々の前で彼を非難したとあります。

 それで後に、イエスを信じた異邦人には、ユダヤの慣習である割礼はじめ他の律法を守る必要があるかどうか、使徒たちの間で、会議がありました。この時も、確証されたのは、異邦人に不必要な律法の荷を負わせないということでした。

ところが、ケパ(ペテロのこと)がアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあっ

たので、わたしは面とむかって彼をなじったというのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。

 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。

 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 (ガラテヤ 2章11-14節)

如何にこの宗教の悪霊は、人を神の恵に単純に与らせることをせず、儀式や形式に引き戻してしまう力があるか、同町圧力というものがあるかということは、ここの箇所からもわかります。使徒であるペテロさえ、簡単にこの罠に陥ってしまうのです。しかし、後で使徒たちが集まった時、異邦人の信者らに対する指針を決定して伝えたことは以下の通りです。

さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった…パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。

 そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「…人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、 また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。 しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。

すると、全会衆は黙ってしまった。それから、バルナバとパウロとが、彼らをとおして異人の間に神が行われた数々のしるしと奇跡のことを、説明するのを聞いた。ふたりが語り終えた後、ヤコブはそれに応じて述べた、「兄弟たちよ、わたしの意見を聞いていただきたい。…わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。…」。

 そこで、使徒たちや長老たちは、全教会と協議した末、お互の中から人々を選んで、パウロやバルナバと共に、アンテオケに派遣することに決めた。…この人たちに託された書面はこうである。

「あなたがたの兄弟である使徒および長老たちから、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟がたに、あいさつを送る。…この人たちは、あなたがたに、同じ趣旨のことを、口頭でも伝えるであろう。

  すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。 さて、一行は人々に見送られて、アンテオケに下って行き、会衆を集めて、その書面を手渡した。 (使徒行伝 15章1-30節)

ここで「聖霊とわたしたちは、次の必要事項のほかはどんな負担をも、あなたがたに負わせない…」と言って、四つのリストを挙げました。それは「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。」ということでした。

ですから、福音書、使徒行伝や書簡に書かれている使徒たちの行いにおいても、彼らが福音に生きること、また異邦人に何を求めるかという事の内容も彼らが聖霊によって教えられ、また啓示を受けていく中で、変っていったのです。それは「負いきれないくびきを負わせない」「どんな負担も負わせない」という言葉からもわかるように、それらは、福音の神髄は、何かの形式や儀式にこだわったりすることから得る義ではないということです。

律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできない。 (ガラテヤ 3章12-15節)

神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。 (ガラテヤ 4章8-11節)

  自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。 (ガラテヤ 5章1節)

 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。 (ガラテヤ 5章13-14節)

 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 (ガラテヤ 5章16-18節)

  もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。(ガラテヤ5章25-26節)

――クラスの終わり