ニムロデとクリスマスツリー、異言、そして癒し <パート2>

https://ichthys.com/mail-nimrod.htm

ロバート・D・ルギンビル博士著

<質問と答えからの訳です>

<質問② 聖書には「異言を語ることを妨げてはならない」と書かれていないでしょうか。私の理解では、異言はすべての信者のしるしです。過去・現在・未来を通して、すべての人のためにあると言われています。確かに、いつかは終わるとありますが、知識は終わっていません。それなら、なぜ異言や癒しだけが終わるのでしょうか。>

2)異言についてですが、聖書は確かに、異言を語ることを禁じてはならないと命じています。パウロはこのことを第一コリント14章39節で述べていますが、これは彼が霊的賜物について三章にわたって論じた議論の締めくくりとして語ったものです。その大部分は、異言の実践をどのように秩序立てて行うべきかに関する内容です。たとえばパウロの言葉から非常に明らかなのは、教会において異言を語る者は、その異言がどのような意味であるかを会衆に明らかにするために、その異言を解き明かす者が同席していなければならないということであり(第一コリント14章28節ほか)、この条件が満たされないのであれば、異言を語るべきではない、という点です。私は、聖霊のご奉仕や神の御言葉の働きを妨げたいなどとは決して思いません。私が問題だと感じているのは、現代の多くの実践が、私の見るかぎり聖書と一致していないという点です。まず第一に、異言の賜物を持つ者が皆ではないのと同じように、教える賜物、助ける賜物、癒しの賜物などを持つ者が皆ではありません(第一コリント12章30節;同12章10節参照)。このため、異言を語ることが、「その人が聖霊を持っているかどうか」あるいは「本当にクリスチャンであるかどうか」を示す必須の「しるし」だと考えることは、非常な誤りです。しかし、私自身の経験は確かに限られたものであるとはいえ、多くのカリスマ派のグループが、異言を語ることを一種の霊的成熟度を測るリトマス試験紙のように扱っているのを、まさに見てきました。そうした状況では、「自分も皆と歩調を合わせている」と示すためだけにでも、「異言を語り始めなければならない」という圧力を感じる人が出てくるのは、想像に難くありません。したがって、第一コリント12章10節および第一コリント12章30節を考えれば、もし教会のほとんど全員が異言を語っているという状況があるなら、そこで語られている異言の少なくとも一部が本物ではないはずだと考えるのが理にかなっているのです。さらに、第一コリントのこれらの章は、すべての「異言」が真実の言語であることを明確に示しています(第一コリント14章6–10節参照)。これは、ペンテコステの際に語られた「異言」がそうであったこと(使徒行伝2章5–12節)とまったく同じです。したがって、あらゆる「異言」は、その言語のネイティブ話者、もしくは解き明かしの賜物を持つ人(第一コリント14章5節;参照 使徒行伝2章8節)のどちらかによって解釈できるものでなければなりません。そして、現代においては、人の口から出ているものが本当に実在する人間の言語であるかどうかを判断することは比較的たやすいことです──ところが、私はこれまで、そのような証拠を一度も見たことがありません。

異言の目的の全体は、それが「しるし」となることですが──それは、異言を語る人々が信者であることを示すためではなく、不信者を確信に導くためのものです(第一コリント14章22節)。たとえば、ペンテコステの日に起こった異言がまさにそうでした。すなわち、過越の祭りのために世界中からエルサレムに来ていた不信仰なユダヤ人たちが、信者たちの語る異言、すなわち自分たち自身の母語を耳にしたのです(使徒行伝2章4–12節)。異言の賜物という奇跡は、人が学んだことも理解したこともない言語を語ることができるようになるという点にあります(そして解き明かしの奇跡とは、学んだことのない言語を理解できるということです)。しかし、それでも異言はあくまで言語であり、現代においてもそれが本物の言語であるかどうかは容易に判別できるはずです。繰り返しますが、私の限られた経験のなかでは、異言を語っているとされる人から、実際に判別可能な人間の言語が発せられているという事例を、聞いたことも見たこともありません。

最後に、私は異言を語ることを妨げたいとはまったく思っていませんが、主が現在この賜物を与えておられない可能性については、十分な理由があります。世界の歴史において、奇跡的な賜物が働いた時期はごくわずかであり、しかも特定の時代に限られていました。私たちの時代、すなわち教会時代の初期には、これらの賜物は明らかに必要でした――すなわち、使徒たちの権威を確立し、ごく少数の奉仕者から世界中へ御言葉を広め、大学で外国語を学ぶ機会のない時代において宣教を可能にし、そして聖書が完成し広く行き渡るまでの間、神の啓示の欠けている部分を補う役割を果たすためです。これらの条件は、今日においてはひとつとして当てはまりません。ですから、これらの特別な賜物が現在は与えられていないとしても、私にとっては何ら不思議ではありません。そしてここからが、この話の本質的なポイントになります。

もし聖霊が、あなたや私、または他の誰かに異言の賜物をお与えになっているのであれば、私やあなた、あるいは他の誰であれ、それに疑問を呈したり反対したりするなどということは決してすべきではありません。むしろ、それを喜び、その益を受けるべきです。しかし一方で、もしその人が、実際には聖霊から本物の異言の賜物を与えられていないのであれば……(この先はご自身で補っていただければと思います)…。私が言いたいのは、これまで一度たりとも、学んだことのない実在の言語を語っている人の証拠を目にしたことがないということです。そのため私は、第一コリント13章8~10節の自分の解釈を引き続き支持する傾向があります。つまり、私が個人的に判断する限り、こうした特別な賜物は現在休止状態にあるように見える、ということです。(「知識」の賜物も特別な賜物と解釈され得ますが、現代ではそのような知識=グノーシスを受けるためには聖書を学ばねばなりません。)

この点に関してさらに詳しく扱った別のリンクもありますので、そちらをご参照いただければと思います。

<質問③ 私は神によって、二つの不治の病から癒されました。自分自身だけでなく、他の人たちに起こった本当の癒しの奇跡も目撃してきました。足がなかったところに足が生えたり、指が生えたりするのを見たことがありますか。私は見ました。それは神の恵みによる以外の何ものでもありません。もし強く聞こえたらお許しください。決してそのつもりはありません。私は宗教ではなく、神に堅く立っています。ただ、あなたの文章を読んでいて気になった点を指摘しているだけです。あなたが、多くの人に神の光と真理をもたらしている神の人であると私は信じています。そのことに感謝します。神があなたの日々を祝福してくださいますように。主の御名において。>

<回答:>

3)癒やしに関してですが、お話しくださった出来事は、まことに驚嘆すべきものだと感じます。足が存在しなかったところに新たに生えたというのであれば、それは紛れもなく奇跡であり、神の恵みによってのみ起こり得ることです。しかしながら、この領域に踏み込む際には、非常に慎重である必要があります。これほどまでに驚異的で、人が否定し得ないような事柄に触れる場合、その真偽を慎重に吟味するのは賢明なことです。こう申し上げると分かりやすいかもしれません。私たちは皆、主の傷跡を見て触れるまでは復活を信じられなかったトマスよりも、もっと強い信仰を持ちたいと願うものです。そして、主の「見ないで信じる者は幸いである」(ヨハネ20章29節)という御言葉をよく覚えています。しかし、この状況とトマスの不信との間には違いがあります。トマスは主ご自身が宣言された御言葉を信じなかったのです。主は復活を語られましたが、トマスはその言葉ではなく「証拠」を求めました。私がここで申し上げたいのは、聖書こそが、私自身の目で見るどんな現象よりも確かな真理である(第二コリント4章18節, 5章7節; ヘブル11章1節; 第二ペテロ1章19–21節)と、私が聖書から理解しているという点です。

もし、私の目に見える何かが、聖書の真理と食い違うように思われるなら、私は自分の目よりも神の側に立ちます。癒しを行われる神は、まことに何でもおできになるお方であり、私はそのことを心から賛美します。しかし同時に、どうか覚えていてください――羊を惑わす危険な狼たち が存在し、自らの利益のためにどのような手段をもいとわない者たちがいるのです。エジプトの呪法師ヤンネとヤンブレ(出エジプト7章11節; 第二テモテ3章8節)は、私たちが奇跡と呼ぶようなことを行いました。また、反キリストの偽預言者 も同様の偽りの力を働かせ、多くの者を惑わすでしょう(黙示録13章)。実際、大患難時代には、まさにこの種の「奇跡的現象」によって、多くの信仰者が道を踏み外すと聖書は警告しています。

関連する詳細な考察については、以下のリンクをご参照ください。

「大背教」―『来たる艱難期第3部A』より

「聖書を読みなさい――カルトから身を守るために」

「サタンの体制における偽りの教え――ペテロシリーズ#13」

偽りの教え

私からあなたに、1)あなたが見たと信じているものを「見間違いだ」と申し上げたり、2)あなたが「だまされたのだ」と断定したりすることは、決してありません。しかし私自身について言えば、聖書から御霊が導いておられる方向性と食い違うように見える事象については、たとえ自分の目で見たものであっても、聖化された健全な懐疑心を保ちたい――そう願っています。聖書から理解できる範囲では、次に本格的で顕著な奇跡的活動が再び現れるのは、艱難期が始まり、14万4千人の奉仕が開始される時であると考えています(リンク参照:「14万4千人の奉仕」)。

重ねて、あなたの温かい励ましと親切なお言葉に心から感謝いたします。どうかこのメールを、あなたのメールを私が受け取ったのと同じ「愛の精神」において受け取っていただければ幸いです。私は、神の真理の適用や理解にもし誤りがあれば、喜んで正されたいと願っています。願わくは、神の真理こそが高く掲げられ、人間の誤解は取り除かれ、あらゆる不真実が完全に一掃されますように。

真理そのものなるお方――私たちの主イエス・キリストの御名において。

ボブ・ルギンビル