特別な人に出会わせてください、との祈りのリクエストに主は答えてくださいました。祈りは聞かれますね。お祈りして下さった方々、ありがとうございます。
昨日、午後に、数人の兄弟姉妹と約束の公園で待ち合わせて、それからクリスマスのトラクトを配りました。
皆、マスクで顔が隠されているので、お互い表情によってコンタクトをとれるのが難しくなってきているのかもしれませんが、以前よりも少し受け取ってくれる人が少ないように思えました。それでも、何十ものトラクトを短い時間に配ることができ、ある人達は、「ありがとうございます」とか、「他の人にもあげたいからもっともらえますか」と戻ってきて言う人もいました。
また、トラクトを受け取ってすぐに声をあげて読んでいる人もいて、励まされました。
妻も一緒に、配りました。公園のベンチに腰かけている人に話しかけていました。長い間、彼女はその人の前にしゃがんで熱心に、話したり、相手の人の話を聞いたりしていました。七十歳くらいの男性でした。
待ち合わせの時間になっても話続けているので、私もそこに行って会話に参加することにしました。
その人、Iさんは、三十何年前に自分の会社が倒産して食べる物もなくなった時、公園で食べ物を配っていたある教会の人達を通して、聖書に出会ったのでした。話を聞くと、ただ賛美を一緒にしたい、そのためだけに教会に行くと、言っていました。
聖書の言葉にはたくさん触れていたようでした。それで妻が、イエス様を心に迎え入れたいですか?一緒に祈りましょう、と言ったらイエス様を心に迎え入れたそうです。彼は話している間中、ずっと涙を流していました。喜びの涙です。私と話している間も涙を流し続けていました。
今は、泊まる場所も食べ物もあるようですが、どんな生活をしているか詳しいことはわかりませんが、確かなことは、I さんは、イエス様に赦された天国の民であるということです。私たちは、そのことで共通する話題をもっていました。イエス様を愛していること、罪ゆるされたこと、イエス様がいつも共にいてくださっていること、そして天国では私たちを迎えてくれるすまいがあること。
彼は、旧約聖書はあまりわからないけれど、新約のたとえ話はわかると言っていました。金持ちとラザロの話も彼の口から出てきました。
おなかを空かした時を体験した時、そのたとえ話が彼の心に語りかけたのでしょう。パウロがクリスチャン迫害者であったのに改心した話も出てきました。彼は、きっと賛美をしに行った教会で、説教を何度も聞いたのでしょう。よく自分でも聖書を読んでいるようでした。それら聖書に登場する人物のことを語り合うと時間が早く流れていきます。
私たちがふるさとの天に行ったとき、ただ主にある友、兄弟であるということ以外に、どんな隔たりも持たなくなることでしょう。
この一人のかつてホームレスだった人の口から主への賛美と愛の涙を見ることができ、短いひと時だったけれど、聖なる神が造られた尊い人の心と交わることができて、素晴らしいクリスマス・プレゼントをいただいた思いです。
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。
わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。 もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。 (ヨハネ第一の手紙4章7-21節)
私たちの主イエス様の地上での聖なる生涯は、質素な飼い葉おけから始まり、十字架の処刑で終わりました。しかし、神はイエス様をよみがえらせて下さいました。
イエス・キリストの聖なる血によってきよめられた者も、聖なる者となるように召されています。主がその働きを主の日までに完成されようとしています。
神様によって許された孤独と、質素さ、苦しみの闇の中に導かれたら、それこそ、主のみ足のあとをたどって聖なる者とされようとしている神の御手がそこにあります。
御心がこの身になりますように、と祈ったマリヤは、神の栄光を見ることになりました。素朴な牧人らも、その栄光を見ることが許されました。
主の慈しみが、救いを求める者にありますように!! 自分が何を求めたらいいのかわからない人達に主の愛の光が照らされますように!
メリー・クリスマス!!
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