ペテロの手紙#18

クリスチャンの生産と永遠の報酬

ロバート・D・ルギンビル博士著

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はじめに: クリスチャン生活の目的は霊的に成長することであり、他の人々も同じように成長するように助けることであることを説明してきました。今までの研究では、この命題の最初の部分、すなわち個々のクリスチャンとしての私たちの霊的成長を扱う、神の計画の四つの段階のうちの三つを考えてきました。最初の三つの段階とは 1) 聞くこと(信者として、神についての情報を得るために積極的に行動すること)、2) 信じること(聖書の真理を信仰によって心に受け入れ、自分の考えの一部とすること)、3) 生きること(この真理を積極的に生活に適用すること、特にストレスや試練の時に真理の原則に考えを集中すること、真理に従って生きるように努力すること、信仰、希望、愛の徳を生活に適用すること)。これらの最初の三つのステップ(これはクリスチャンとしての経験を通じて継続しなければなりません)は、私たちの人生に対する神の計画の第四段階である「助けること」に着手するために必要不可欠な準備と糧を与えてくれます。他のクリスチャンを助けること(そして他の人がクリスチャンになるのを助けること)は、この地上における私たちの目的の究極的な成就であり、私たちの天の報いの基礎です。それはまた、私たちの義務でもあります。他の人の助けによって成熟し始めたら、愛の手を差し伸べて、他の人が同じように成熟するのを助けるのが私たちの責任だからです。

IV. 助けること: 「聖職者<英語でミニスターminister>」と聞けば、多くの人は地元の教会の牧師を思い浮かべるでしょうが、牧師は確かに聖書的な意味での「聖職者」ですが、実はこの言葉には、信者がキリストの教会の他のメンバー(そして未信者にも)に与えるすべての助けや奉仕が含まれています。ギリシャ語のディアコノス(διάκονος)は文字通りしもべを意味し、キリストが反目する弟子たちに「一番偉くなりたい者は、皆のしもべにならなければならない」(マタイ20章26-27節)と言われましたが、私たちはこの言葉を「聖職者」と訳すのが正当でしょう。もちろん問題は、英語のミニスターministerには権威、地位、威信、選択権といった意味合いが含まれており、ギリシャ語の「しもべ」には全く含まれていないということです。現実には、キリストのからだのすべての成員は全体の奉仕者(しもべ)であり、私たちの目や耳や腕や足がからだの他の部分から独立した機能を持っていると同時に、どの部分も他の部分から分離して存在することはできません(第一コリント12章12-26節)。神はキリストの教会を、私たち一人一人がなすべき仕事を持つように設計されました。クリスチャンの「メンバー」一人一人には、「からだ」の残りの部分のために果たすべき、重要でユニークなミニストリー(奉仕)があります。ある奉仕は華やかに見えるかもしれませんし、ある奉仕は平凡に見えるかもしれません。ある奉仕は大きな注目を集めるかもしれませんし、ある奉仕はほとんど気づかれないように見えるかもしれません。ある奉仕は、今ここで多くの報酬に恵まれるかもしれませんし、ある奉仕は、それを行う者にとって大きな重荷に見えるかもしれません。ただひとつ確かなことがあります: 神は私たち全員に、クリスチャン生活で果たすべき奉仕を割り当てておられるということです。本当に重要なことは、「私たちはそれを果たしているのか、果たしていないのか」ということです。

実を結ぶこと :

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。(ヨハネ15章1-2節)

私たち神に従っていこうとする者(上の枝のように実を結ぶ者)にとって、神は私たちのクリスチャンとしての生産が最大になるように私たちの人生を導いてくださいます。さらに、私たちがイエス・キリストにあって新しく造られたのは、まさにこの目的のためなのです(エペソ2章10節)。しかし、私たち「枝」が表立って物事を行う者かもしれませんが、神が私たちのこの世で成し遂げる善い行いの源であることを忘れてはなりません。私たちの主人であるイエス・キリストから離れては、私たちは「実を結ぶ」ことはできませんが、私たちがイエス・キリストについて行き、従い、イエス・キリストのうちに「とどまる」とき、私たちは神によって、私たちが選ばれた特定の務めを果たす力を与えられるのです(ヨハネ15章5節)。

また、実り豊かな生産を霊的成長と切り離すことはできません(コロサイ1章10節で両者は結びついています)。霊的な未熟さは、私たちが他の人々の霊的な成長を助けるために教会に与えることができる助けを必然的に制限します。このことは、私たちがあるレベルの霊的成長を遂げるまで実を結ばないことを意味するのではありません。ヘブル人への手紙の著者は、まさにこの点で、彼らの失敗を咎めています:彼らは長い間クリスチャンであって、ずっと以前から他の人々に助けを与える側になっていたはずであったのに、他の人々からの助けをまだ必要としていたのです(ヘブル5章12節)。

神の御言葉を聞き、信じ、実践することによって霊的な進歩を遂げることをいつまでたっても怠る信者は、その生産に限界があることに気づきます。種まきのたとえは、人生の心配事や富や快楽を乗り越えることを怠る信者は、雑草に塞がれた植物のようなものだと教えています。人生の思い煩いは、彼が植えられたその目的のために実を結ぶのを妨げてしまいます。(マタイ13章22-23節; ルカ8章14節

ヨハネによる福音書15章2節で切り落とされた枝が証言しているように、実をまったく結ばないことは深刻な問題です。タラントのたとえでは、生産性のあるしもべがほめられ、報われるのに対して、自分のタラントを土に埋めたしもべは、主人によって外の暗闇に投げ込まれます(マタイ25章14-30節)。このたとえの中で自分の一タラントを埋めたしもべも、ヨハネ15章2節で捨てられた枝も、どちらも不信仰な者を表しています。キリストを信じる真の信者が、何の生産ももたらさないということはあり得ません(ヤコブ2章26節)。また、たとえ話に出てくるような、「タラント」に恵まれたにもかかわらず、わずかな「利子」しかもたらさないような、生産性の低いしもべのようであってはなりません(マタイ章25章27節)。ある人は他の人より多く持っているように見えるかもしれませんが、私たちは皆、この世で神のために用いる霊的な「才能」を与えられています。私たちは、「興味」を失い<正しく機会を用いて-投資をしなかったために「利子」をもうけ損なう-神のために実を結ぶ機会を失う、という言葉にかけている。英語のinterest(利子) には「興味/関心を持つ」の意味があります>、それによって自分のユニークな宣教の機会が生かされないままにならないように気をつけなければなりません。もし私たちが霊的に成長したら、それは私たちが名前を挙げることができないほど多くの人々からの助けなしには成し得なかったことなのです。そうであるなら、私たち自身が助けられたように、他の人々に手を貸し、霊的成熟に向かう旅路を助けることで、何かをお返ししたいという願いを持つのは当然ではないでしょうか。

生産とは?

  1. 生産とは与えること

木が実を結ぶとき、その実を収穫して食べる人々には祝福がもたらされます。これと同じように、私たちクリスチャンの「生産物」は、私たち自身のためではなく、他の人々の人生を祝福するために存在します。「実を結ぶ」とは、本質的に与える行為です。それは常に、他者の霊的善のための努力と自己犠牲を伴います。重要なのは贈り物の大きさではありません。やもめの小銭は、神の目には金持ちの大金よりも「多い」のです(マルコ12章42節; ルカ21章2節)。主の御名によって与えられた一杯の冷たい水でも報われないことはありません(マタイ10章42節; マルコ9章41節)。また、贈り物は物質的なものである必要はまったくありません。教えること、慰めること、励ますこと、親切な言葉、助けの手、主の名によって主の栄光のために行われる愛の言葉と行い、これらはクリスチャンの愛から注がれる賜物であり、私たちの霊的な賜物を最もよく補うものであり、御子イエス・キリストという形で私たちに与えられる神の最大の賜物を最もよく思い起こさせるものです。

生産、ミニストリー、働き、キリスト教的奉仕など、クリスチャンの「与える」という行為には、金銭的な贈り物だけでは意味がありません。パウロは、ピリピの信徒たちが自分に与えてくれた恵み深い献金を称賛しながら、自分が受け取ったお金よりも、彼らの行為が証明した正当な生産に対して彼らの<天の>口座に入金された報酬の方をはるかに喜んでいることをはっきりと明言しました(ピリピ4章17節; 第二コリント8章1-4節参照)。現代の皮肉な世の中では、このような発言は懐疑的に見られがちです。使徒パウロほど、主のために極度の苦難と窮乏の生活を送った人はいないからです(第二コリント11章16-33節)。パウロにとって、金銭は宣教のための「種」、すなわち手段の一種にすぎません(第二コリント8章9章)。私たちが神のために行う奉仕は、真の奉仕であるためには、他者の救いと成長のために自分自身を捧げるものでなければなりません。キリストは、求める人には与えるようにと教えられました(マタイ5章42節)。ですから、私たちはキリスト教会の経済的な必要をないがしろにしてはなりません。しかし、同様に、イエス・キリストの教会を啓発するために必要な親切な行為、励ましの言葉、介在の祈り、真理の教えを、お金で代用できると考えてはなりません。

聖書は、アベルは死んだとはいえ、彼が捧げたいけにえを通して、神への信仰を世に証ししていると教えています(ヘブル11章4節)。彼の血の犠牲は、罪の代価を支払う身代わり、つまり救い主の必要性を表していました。犠牲を通してこの事実を認めることによって、アベルは同胞に物質的な利益を与えたわけではありません(慈善事業にお金を捧げるように)。

彼らの最も永続的な働きのいくつかは、今日に至るまで私たちを鼓舞する信仰の行為なのです。ヤコブが、行いはしないが信仰はあると言う信者を非難するとき、彼の善い行いの模範は、一人息子イサクの犠牲という極めて困難な試練において、喜んで神に従ったアブラハムです(ヤコブの手紙2章21-23節)。アブラハムによるこの従順の行為は、他の信者に物質的な利益を与えるものではありませんでしたが、アブラハムと同じように神を信頼するよう私たちを励まし、今日でも私たちに宣教しています(ローマ4章17節)。過去の偉大な信仰者たちも同様です。ダニエル、ダビデ、ステパノとそのような信仰に生きた人たちが偉大なのは、金銭的な贈り物のためではなく、神への信仰行為を通して神の誠実さを証しする実を結んだからなのです。聖書に登場するこのような証となる事例のすべてにおいて、これこそが贈りものの本質なのです。贈りものにあずかる私たちを喜ばせる実とは、生き生きとしたダイナミックな神への信頼であり、神を賛美すると同時に、私たち自身のクリスチャン生活を前進させるよう励まし、鼓舞するものなのです。このような「実」が完全に熟すまでには、確かにある程度の霊的成熟が必要です。

というわけで、私たちは元のテーマに戻ります。霊的な生産において最も効果的であるためには、私たちはまず、ここまでの研究の焦点であった「聞き、信じ、生きる」というプロセスを通して、ある程度の霊的成熟を達成しなければなりません。結局のところ、もし私たちがまだ主を本当に信頼するところまで到達していないのであれば、未信者に主に信仰を置くように証しすることが、どれほど効果的にできるでしょうか?もし私たちが、天からの報いを本当に信じるところまで到達していないのであれば、悲しんでいる人を慰めたり、霊的に疲れている人をキリストにあって喜びのうちに進む気にさせたりすることができるでしょうか。もし私たちが、人生において何よりも神を愛することをまだ本当に学んでいないとしたら、いったいどうやって神のために激しい犠牲を伴う仕事を引き受けることができるでしょうか?これらはほんの一例ですが、私たちのミニストリーがどのようなものであれ、「奉仕者」が「奉仕される者」に提供するための霊的資本を心に蓄えていない限り、(もしそれが軌道に乗ったとしても)そのミニストリーが十分に効果を発揮することはないでしょう。

生産とは、何よりもまず、神に対してではなく、実際のクリスチャンであれ、潜在的なクリスチャンであれ、私たちの仲間のクリスチャンに対して与えることです。神は私たちから何も必要とはされませんし(使徒行伝17章25節)、実際、教会に委ねられた宣教の一つひとつの行為を、大した努力もせずに自ら行うことができるのです。つまり、神が自ら容易に手入れできるぶどう園で働くことを許されるのは、私たちにとって稀有な特権であり、その結果、私たちの主イエス・キリストという最も偉大な賜物に感謝し見習うために、自分自身の何かを捧げることになるのです(第二コリント9章15節; ローマ5章15-17節)。

II. 生産は力によって

権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。 

(ゼカリヤ4章6節)

私たちは、単なる枝として宿っているぶどうの木から離れては、生産することができないことをすでに見ました(ヨハネ15章1-2節)。ただし、私たちの奉仕は、神が私たちに与えてくださる仕事に私たちが進んで参加するかどうかにかかっています。神に受け入れられるいかなる生産行為も、純粋に人間の設計やエネルギーによって成し遂げられることはありません。神は時が創造される前から、私たちが現世で行うことを望んでおられる善い行いを備えられ(エペソ2章10節)、神の聖霊の助けなしには、その一つひとつを正しく行うことはできません(第一コリント12章3節)。イスラエルの民がバビロンの捕囚から帰還した時に神殿を再建することが困難で大変な仕事であったように(上記のゼカリヤ4章6節の文脈)、今日、私たちに求められている務めの多くは、私たちには不可能に思えるかもしれません。しかし、神に不可能はなく(創世記18章14節; ルカ1章37節参照)、神はゼルバベルに、御霊が彼らの務めを力づけると安心させたように、私たちクリスチャンも、御霊が私たちと共におられるだけでなく、私たちの内におられるのですから(ヨハネ14章17節)、たとえその時は乗り越えられないように思えても、宣教に対する反対に直面した時には、勇気を持つべきです。

聖霊は、すべての宣教とすべての霊的賜物の働きを力づけるお方です(第一コリント12章6節後半, 11節後半)。聖霊は枝である私たちを通して、立派なクリスチャン生活の実(ガラテヤ5章22節)と、他の人々への直接的なミニストリーの実の両方を結ぶように働かれます。このような実を結ぶ中心には、個々のクリスチャンが持っている霊的賜物があります。私たち一人ひとりが霊的賜物を持っており、私たちが受ける賜物の選択を決定し、それを与え、力づけるのは聖霊です(第一コリント12章11節)。もし私たちが本当に喜んで仕えるつもりであるのなら、神が私たちのために選んで与えてくださったどんな賜物であれ、神が私たちをその真の適切な働きに導いてくださるという信仰を持たなければなりません。もし、私たちが教会の中で、神様が選ばれたはずの特定の働きに適していないと思われるなら、1)体のすべてのメンバーが必要不可欠であることを思い出し(第一コリント12章12-26節)、2)神様が私たちのために計画された最初の、最善の運命から逃れようとしないことを思い出し(ヨナ1章1節-3章3節)、3)賜物の選択は神様のものであり、それゆえ、私たちはその選択を尊重し、それが最善であることを神様に信頼しなければなりません。最後に、異言、預言、癒しなどのような、現時点では運用されていない霊的賜物を望むことは、まったく不適切です。理性的なクリスチャン(つまり、感情を排除するのではなく、感情を理性に従わせることを主張するクリスチャン:第一コリント14章32-33節, 14章40節)である私たちは、聖霊が使徒を任命したり、聖書に新たな章を書き加えることを許したりしないのと同じように、これらの賜物が現在、聖霊によって分配されていないという事実を受け入れるべきです。

聖霊が私たちのクリスチャンとしての奉仕の領域を選び、力を与えてくださることは、私たちの賜物の特定の領域を決定することに限定されるのではなく、私たちの生産全体を包含しているのです。第一コリント12章4-7節では、私たちのミニストリーのあらゆる側面が神の支配下にあることが教えられています:多くの「賜物」、「働き」、「効果」を監督するのは「同じ御霊」です。これらの三つのカテゴリーは、1)特定の霊的賜物(助け、励まし、伝道など)、2)特定のミニストリーの状況(世界中の様々な教会における指導者や奉仕職など)、3)現場の生産性を表しています。例えば、あなたは助けの霊的賜物を持っていて、その賜物を地元の教会(具体的なミニストリー)の物理的な場の維持管理を手伝うことによって用いられているかもしれません。しかしながら、コリントの信徒への手紙第一12章に書かれている第三のカテゴリーは、最も示唆に富んでいます:あなたのミニストリーの実際の効果は、あなた自身の努力だけでなく、あなたが働いている畑の肥沃さにも基づいています。つまり、あなたが耕している土が豊かであっても、貧しくても、その中間であっても、神はそのすべてを考慮し、実に前もってすべてを計画されているのです。つまり、たとえば伝道者は、救われた人の数によってその成果が評価されるのではありません。むしろ、彼の奉仕は他の基準(つまり、彼が働いていた分野の可能性に対して、彼がどれだけ自分の任務を遂行したか)によって判断されるのです。結局のところ、エレミヤと他の旧約聖書の預言者たちの多くは、当時、彼らの努力の結果、実際に生産されたものはほとんどありませんでした。ですから、私たちの特定の働きが、表面的には成功している他の働きに比べてあまり意味がないように見えることがあっても、意気消沈しないようにしましょう。聖霊の力によって、私たちが神によって意図された務めを果たすとき、神は意図された効果を達成されるのです(参照:イザヤ55章11節)。

III. 生産は報われる

だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 (第一コリント15章58節)

キリストを信じる者として、私たちは永遠に生きます。私たちは栄光の体を持って復活し、主と共に永遠に住むのです。パウロが上記のように述べたのは、第一コリント15章における復活についての長い議論の締めくくりです。

1. 裁きと報酬

「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 (黙示録 22章12節)

他の多くの聖句(例えば、イザヤ40章10節; 62章11節など)と同様にこの聖句は、私たちの誰もが、この地上での期間に「善であれ悪であれ、自分の行ったこと」(第二コリント5章10節)について裁かれ、報いを受けることを明らかにしています。主の再臨が間近に迫り、主ご自身が私たちの人生を評価されるという知識は、私たちが主の御国の業を忍耐強く続けるのに十分な動機となるはずです。もし私たちが本当に神の望まれるとおりに霊的に前進しているなら、このことは、この地上での私たちの時間と奉仕に対する報酬の原則に心を留める励ましとなるはずです。神は出し惜しみされる方ではなく、私たちの投資に対して豊かな見返りを約束してくださいます。(マタイ10章42節, 19章29節; ルカ6章38節; エペソ6章8節

2. イエス・キリストは裁き主

なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。 (第二コリント5章10節)

神はキリストを生者と死者の審判者に任命されました(使徒行伝10章42節)。その責任が与えられて、私たちの主は御父の代わりに世を裁かれるのです(ローマ14章10-12節; 第二テモテ4章1節; 4章8節)。キリストのベマ(ギリシャ語、βῆμα)、すなわち裁きの席は、この地上にいるすべての信者が、その前に立ち、答えることになる法廷です(ローマ2章16節; ヘブル13章17節第一ペテロ4章5節を参照)。私たち一人ひとりは、自分がしてきたこと(あるいはしてこなかったこと)すべてについて、主に清算しなければならないのですから(ローマ14章12節)、私たちは「すべてのことにおいて主に喜ばれる」(第二コリント5章9節)ように努め、人生が、虚しいものであったことをさらけ出すことになるのではなく、永遠の報いを確認するものとなるように努めなければなりません(第一コリント3章11-15節)。

3. 審判の性質

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 (ローマ8章1節)

クリスチャンの人生に対する評価は、将来起こる他の裁きとは根本的に異なるものです。イエス・キリストを信じる者である私たちは、もはや神の懲罰的な裁きの下にはありません(ヨハネ3章18節)。私たちは(未信者のように)生と死の裁きを受けることはありません。なぜなら、私たちはすでに死から生へと移っているからです(ヨハネ5章24節; 第一コリント11章15節参照)。私達が受けることになる裁きは私達の地上での奉仕の価値を評価するものになります。

4. 裁きのプロセス

わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。 だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。(第一コリント4章4-5節)

主の私たちの人生に対する評価は、必ずしも私たちがこの地上で抱いている基準に沿ったものではありません。主は私たちの心の隠れた動機をすべて知っておられます。主は、私たちが何をしたか、主が私たちを召されたかどうかだけでなく、私たちがなぜそのようなことをしたのかも知っておられるのです(ローマ2章6-10節)。

ですから、たとえ私たちがしていることを世間が理解したり評価したりしなくても、この地上における主のための私たちの労苦は決して無駄ではないのです(第一コリント15章58節)。同じ意味で、この世で表向き主のために行うことのすべてが報われるわけではありません。第一コリント3章10-17節で、パウロは主が私たちの地上での行いを裁かれる方法を説明しています。報酬を得るためには、何をするにしてもイエス・キリストの土台の上に築かれたものでなければなりません(11節)。つまり、私たちの行いが正当なものであるためには、すべての行いが人々をキリストに向けさせ、キリストを信じる人々の信仰と希望と愛を築き上げなければならないのです。

この基準を満たす私たちの行いはすべて、真の価値(12節の「金、銀、宝石」)を持っています。しかしその一方で、私たちが神から与えられた時間と資源を用いることが益をもたらさず、イエス・キリストの土台の上に「建て」上げられておらず、同胞である信仰者たちの信仰と希望と愛が強められないのであれば、この方面での私たちの努力はすべて無駄になります。これらの働きは「木、草、籾殻」です。私たちの正当な働きは火の試練に耐えますが、イエス・キリストの福音と聖徒の進歩を促進しなかった働きは滅ぼされます。主が私たちのクリスチャンの労苦を裁定されることを知れば、心強いことではありませんか。私たちの忠実な審判者は、私たちが主のために成し遂げたことの真の価値を見定められることでしょう。

この地上での時間を無駄にした信仰者であっても、その人自身は救われます:信仰を保ち続けるなら、その行いは滅ぼされても、その人自身は救われるのです(15節)。しかし、この関連でパウロは、正当な行いと、単なる時間の浪費に過ぎない行いの他に、もう一つの行いのカテゴリーを指摘していることに注意することが重要です。もし、その行いが神の教会にとってじつに悪質なものであれば、その人は神の裁きを受けることになります(17節)。もし私たちが最後までキリストへの信仰を堅く保つことができなければ、私たちの報酬は私たちと共に滅びてしまいます。信仰と同じように、報酬は失うこともあれば得ることもあるからです。(第一コリント9章24-27節; 第二ヨハネ1章8節; 黙示録3章11節

5. 裁きの時

また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方<四方の風-欽定訳>からその選民を呼び集めるであろう。 (マタイ24章31節)

私たちの主が勝利と栄光のうちに地上に戻って来られるとき、私たちも主に会うために集められるでしょう(第一テサロニケ4章14-17節; 第一コリント15章50-58節)。主の再臨と、私たちが「主と共に集められる」(第二テサロニケ2章1節; 参照:イザヤ27章12-13節)時は、私たちの評価と報いも始まる時となります(マタイ16章27節, 19章28節, 20章8節; ルカ14章14節; 黙示録11章18節)。イエス・キリストは再臨されて、悪魔の世界を征服された後(マタイ24章29-31節; 黙示録19章1節20章6節)、イスラエルを徹底的に評価されます(イザヤ1章25-28節, 4章2-6節; エゼキエル20章33-38節; ゼカリヤ13章; マラキ3章2-3節; ローマ11章26節)。また、新しく復活したすべての信者を裁かれるのもその時です(奉仕に基づいて永遠の報酬を与えるため: ローマ2章16節; 第一コリント3章10-17節; 第二コリント5章10節)。この長い「裁きの日」は、「主の日」(再臨と千年王国を一つの壮大な出来事として包含する言葉:第二ペテロ3章10節第二ペテロ3章8節を参照、使徒行伝2章20節; 第一コリント3章13節; 第一テサロニケ5章2節; 第二テサロニケ2章2節も参照)とその裁き、そして大いなる白い御座での不信仰者の最終的な裁き(黙示録20章11-15節)、千年王国時代の信者の最終的な復活によって終わります。

6. 報酬動機の正当性

信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 (ヘブル11章24-26節)

ヘブル11章26節が示すように、モーセがエジプトでの権力と名声という物質的な祝福をあきらめるという困難な決断を支えたのは、神から報いを受けるという絶対的な確信でした。このように、将来の報いの約束は、すべての信仰者にとって正当な動機づけの手段なのです(ヘブル11章39-40節)。地上の試練や苦難に耐えながら、私たちは神が約束されたすべてのことが天上で成就することを切望し、報酬がその期待の一部であることは確かです(第二コリント5章1-10節)。報酬は、私たちが信仰を保ち、希望に集中し、愛に基づいて行動するよう励ましてくれます。すべてのクリスチャンの奉仕は報いがあり、私たちの永遠の将来に対する確信を築くのに役立ちますが(第一テモテ3章13節)、同時に、私たちは奉仕の評価を受けるという確実で確かな知識が、この地上での時間と機会を忠実に用いる勤勉さと一貫性を鼓舞するはずです(第一ペテロ1章17節)。ですから、私たちが「すべきことをしたしもべにすぎない」(ルカ17章10節)のは事実ですが、キリスト・イエスにあって私たちが召されている「賞与」という最終的な目標を見失ってはならないのです(ピリピ3章7-14節)。

7. 報酬の意義

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。 (ローマ8章18節)

あらゆる苦しみを知っているパウロが、はかりに例えて、「永遠の栄光の重さ」と苦しみを天秤にかけると、<苦しみは>「軽い」と言うほどです(すなわち、救い、復活、報い)。この世では 「小さなこと」に見えることでも、天の御国では大きな報いを受けるのです(ルカ19章17節)。私達の個々の奉仕における困難は、報酬を更に確かなものにします。このような理由から人ではなく神から報われるように努力し(ルカ14章14節)、人生の一過性の物質的な楽しみではなく、天の永遠の報酬に心を向け(マタイ6章20-21節)、長い目で見れば得るものしかないということを知りながら、主に従うことを第一とするように努めるべきです(ルカ18章22節)。

8. 報酬のレベル

日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 (第一コリント15章41節)

エペソ2章8-9節が明らかにしているように(テトス3章5節参照)、救いは神の無償の賜物であり、イエス・キリストにおける神の御業によってもたらされたものであり、私たちの努力によるものではありません。しかし、同じ文脈の10節は、神の新しい被造物として、私たちがキリストのうちに創造されたことを明らかにしています。私たちに課せられた「善い行い」を成し遂げるには、私たちの側からの献身と実行が必要であり、私たちの正当な努力と生産の程度は、それに伴って神によって報われます(マタイ25章20-23節; 第一コリント9章24-27節)。私たちが「善を行うことにうみ疲れてはならない」(ガラテヤ6章9-10節)と言われているのは、このような努力に対する報いを期待してのことです。神は私たちの努力の大小を問わず、すべての努力を好意的に見てくださり、それに応じて報いてくださるからです(ダニエル12章3節)。

冠の教理:

聖書は私たちの永遠の報酬について、かなり一般的な言葉で語っています。しかし、クリスチャンが受けることになる報酬をより明確に表しているのが、冠です。ギリシヤ語のステファノス(στέφανος、ステパノという名前の由来)は、正しくは葉や花、時には金の花輪を指し、王族の印であるディアデーマ(διάδημα、英語の「diadem」参照)とは厳密には異なります(黙示録12章3節, 13章1節, 19章12節)。ステファノスという「冠」は、ギリシア・ローマ世界では長く多彩な歴史を持っていますが、その多様な用途をつなぐ共通項があります。軍事、陸上、芸術、政治など、その背景が何であれ、ステファノスの冠は必ず、功労やある種の例外的な行為に対する褒章(ほうしょう)として与えられます。同様に、新約聖書においても、王冠は、地上での奉仕期間中に行った正当な業績に対して信者に与えられる報酬を表しています。聖書は三つの異なる冠を挙げており、それぞれが人生における異なるレベルの功績を表しています。

  1. 義の冠:  義の冠は信仰の徳に相当するもので、イエス・キリストにあって成熟し、その霊的地位を最後まで堅く保つすべての信者に与えられます。第一コリント9章25-27節で、パウロはクリスチャン生活を競走にたとえ、競走のように、すべての人に勝利の栄冠が与えられるわけではないことを教えています。現代の陸上競技がそうであるように、古代世界では競技スポーツの勝者には大きな栄光がありました。パウロは、天上の栄冠は、その報酬は永遠であり、朽ちることのないものであり、この世の現世のはかない報酬とは比べものにならないことを思い起こさせます(ローマ8章18節)。重要なことは、使徒パウロのような偉大な信仰者であっても、過去の功績に安閑とするのではなく、現在と将来の行いを真剣に考慮していたということです。コリントの人への手紙第一9章27節で、パウロは、霊的な進歩のために努力し続けるという願望とともに、この同じ思いを他の信徒にも受け継いでもらおうと努めています(他の多くの聖句でも同様です;ピリピ3章13-14節参照)。霊的な前進を続けることによってのみ、逆戻りすることはないのですから(第二ペテロ1章10節)。イエスにあって成長し、私たちが信仰によって持つ義にかなった生活を送ることによって、この世で「打ち勝つ」すべての人に(第一ヨハネ5章4節; 黙示録2章7節, 2章11節, 2章17節, 2章26節, 3章5節, 3章12節, 3章21節)、こうして「主の姿を愛した」すべての人に、主の再臨の日には、私たちの「正しい裁判官」であるイエス・キリストによって義の冠が与えられるのです(第二テモテ4章8節)。
  • 命の冠: 命の冠は希望の徳に対応し、プレッシャーの中でこの世での霊的成長を維持し、様々な試練の中で信仰が試され、磨かれる中でその成長の証を示し、神が定められた終末まで最終的な栄光への希望を持ち続けるすべての信者に与えられます。ですから、成熟した信者は人生の試練を喜びをもって見ることができるのです。そのような試練が自分の信仰を「証明」し、現在の涙のベールを突き破って、その先にある永遠の栄光を見るための忍耐強い希望が生まれることを知っているからです(ローマ5章3-5節; ヤコブ1章2-3節)。人生の火の炉で鍛えられたこの希望の承認によって、いのちの冠に代表される「イエス・キリストの啓示の時の賛美と栄光と誉れ」がもたらされるのです(第一ペテロ1章6-7節)。困難な時に信仰を保ち、希望を示すことによって、私たちは世よりもイエス・キリストを愛していることを世に示し、目に見える報酬として命の冠を約束されるのです(ヤコブ1章12節)。いのちの冠は、悪魔が私たちにどんな試練や誘惑を与えても、神は私たちの一貫した忠実さに報いてくださると知っているので、私たちが耐えるための強力な動機となります(黙示録2章10節)。
  • 栄光の冠:栄光の冠は愛の徳に対応し、人生で与えられた務めを忠実に正しく果たし、それによって神が定められた終わりまで神の愛を反映するすべての信者に与えられます。パウロが自分の教区民を「冠」と呼ぶことができるのはこのためです。なぜなら、教区民は主への忠実で愛に満ちた奉仕の証であり、それが表す報いだからです(ピリピ4章1節; 第一テサロニケ2章19節)。第1ペテロ5章1-4節では、使徒ペテロが、その務めが正しく遂行されるすべての牧会者に栄光の冠を約束しています(他の信者に否定されているのではなく、単に模範として牧会者に特別に約束されているだけです)。ペテロは、私たち全員がとるべき奉仕の態度を、いくつかの好対照な表現を用いて特徴づけています: 「しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。」(2-3節第一コリント9章16節参照)。ペテロがこの点を強調するのは驚くべきことではありません。キリストの群れを思いやること、それはすべての聖職者がなすべき使命そのものであり、主がペテロと実質的な会話をされた最後の記録には(ヨハネ21章15-19節)、主が一番に考えておられたこと、つまり主に対する真の愛はすべて宣教の中に現れなければならないという点を繰り返し、強調しておられたからです。もし私たちが本当にイエス・キリストを愛しているのであれば、私たちはそれぞれ与えられた務めに従って、イエス・キリストの体である教会に奉仕することになります。そのような務めこそが私たちの愛の証であり、栄光の冠で報われるのです。イエスが忠実な僕(しもべ)のたとえで語られたように、このような奉仕は、イエスが再臨される時に豊かに報われるのです(マタイ24章45-51節; ルカ12章41-48節)。

 次のリンクも参照下さい:  The Judgment and Reward of the Church.

  • いばらの冠: 現代のいわゆるクリスチャングループが、現世での繁栄を約束する傾向があることを考えると、王冠の教理について最後に一つ注意する必要があります。私たちの主は、私たち皆のために死なれるほど完璧な奉仕の生涯を送られた後、現世で恩知らずな世からいばらの冠で報われました(マタイ27章29節)。キリストがその正当な主権的支配者になる神の適切な時を待たなければならないように(黙示録19章12節)、現世の支配者である悪魔の敵である私たちは、現世の報酬に照準を合わせてはなりません(詩篇17章14節; 第一テサロニケ3章3-4節参照)。私たちの希望は、その代わりに、決して色あせることのない来たるべき御国における、私たちの朽ちることのない相続財産に向けられるべきなのです(第一ペテロ1章4節)。

結論 神のことばに耳を傾け、それを信じ、それに従って生きようと努力するすべての人々にとって、霊的成長は、信仰、希望、愛の徳を伴う結果です。すなわち、私たち自身がそうであったように、他の人々がキリストを得、キリストにあって成長するのを助けることです。ですから、私たちの主イエス・キリストにあって、この労苦は決して無駄ではないことを知りながら(ガラテヤ6章9-10節)、神がこの地上において私たちに与えてくださったどんな霊的な仕事であっても、耐え忍びましょう。そうすれば、私たちがクリスチャンの愛によって、他の人々の人生に対する神のご計画を実現させるために努力するとき、私たちのすべての働きを支える「恵みと霊的な繁栄」が私たちに豊かに供給されるのです(第一ペテロ1章2節のペテロの祈りによる)。

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