めぐみとまこと
律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
(ヨハネ 1章17節)
神の律法はモーセを通してユダヤ人に与えられました。その律法を通して、人々は神とはどのようなお方であられるのか、また何を望まれておられるのかを知り、律法を基準にして行動したのでした。その律法をパウロは、イエスさまに導くための養育掛であったと書簡で語っています。養育掛とは子どもが大人になるまでの間、心身を養い育てるものです。
…信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
(ガラテヤ書 3章23~26節)
私たちは幼い頃、親、または自分を養い育ててくれる人の監視下にあります。その中で、家庭や社会の規則を守ることを教えられ、保護のため自分のしたいことも制限されます。そして規則を破ったり悪いこと、危ないことをした時には叱られたりして罰が伴うことを知ります。それによって自分が振る舞うべき正しい言動や、世の中のことなどを学んでいくのです。
このように、養育掛は子どもが正しく幸せな道を歩むための大切なものです。しかし、それは大人になるまでのものです。もちろん大人になったからといって社会のルールや法律などの下にいなくなったわけではありませんが、大人となった今は、今まで学んできたことを参考にして、物事の判断や選択を自分で下していくのです。
大人になったというのに、いつまでも規則を守ることだけが、人生の目的であると考える人がいるとしたら、それはおかしなことです。それも、ただ罰せられることを恐れて規則を守り、それが行動の指針となってしまっているとしたら、それは成熟さに欠けたものとなります。それは問題にハマることの恐れに、思考や行動が支配されていることになります。自分で状況を判断し、また良心に照らして考えて責任ある行動をとることが、理想的な大人像であると思います。
ところで少し前に書いた、「キリストはめぐみとまことに満ちていた」(14節)という聖句の補足ですが、この「まこと」について、興味深い説明をネットで見つけたので、引用させてもらいます。「まこと」とは「真理」のことです。新共同訳では、「まこと」が「真理」という訳になっています。
以下「エリクソンの小部屋」サイトの「アレセイヤ」についての記事からの抜粋です。
「真理(まこと)」はギリシア語では、「アレセイア ἀλήθεια」です。「アレセイア ἀλήθεια」は、否定の接頭辞「アἀ」と、「隠れる」を意味する「レソーλήθω」の組み合わせですから、もともとは「隠れることのない」という意味です。」(抜粋終わり)
神は、イエス・キリストを通して、ご自分のまこと(真理・真実)の姿をあらわしてくださいました。イエス様は、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と言われました。それがイエス様のまこと(真理)の姿、「隠すことのない姿」です。そしてイエス様は、ご自分が「すべての人の罪のあがないのための小羊(ヨハネ1章29節)」であり、また食べられて「命を与えるパン(ヨハネ6章35節)」であること、そして「罪びとを招くため(マルコ 2章17節)」に来られた存在であることを知らせたのです。それによって、人が見たことのない神をあらわすために。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
(マルコ 2章17節)
私たちは御自分をあらわしてくださった方の前で、自分をとりつくろう必要はありません。そもそも、私たちの造り主の前で、何も隠すことなどできません。こんな醜く心の汚れた自分など、神に受け入れられるはずがないと思う人がいますが、すべて神はご存知です。
聖句にあるように、医者を必要としているのは病人です。普通、病人が病院に行って、医者に受け入れられないことがあるでしょうか?医者は病人のために存在します。そうであるなら、救い主であられるイエス様は、罪びとを嫌うどころか、罪から解放し救うために罪びとを招いてくださいます。
「苦しかったね、なぜ、もっと早くこなかったのかい?」と、ありのままのあなたを優しく受け入れてくださるのです。
<祈り:>あなたは、神様がどのような方であるかを私たちに示して下さいました。私たちの罪を赦し、愛し、神の子とするために、犠牲になってくださったことを感謝します。どうか、あなたに対して、自分自身を覆い隠すことがないように助けてください。ありのままの自分を受け入れてくださるあなたの寛容で深い愛に信頼できますように。
まこと(真理)をもって(隠し立てを持たず)、あなたを礼拝できますように。(ヨハネ4章23節)
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