形から抜け出す  (二〇一二年十月一日 ひとしずく九五二)

 人は、霊が吹き込まれたことにより、生きたものとなりました。

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(創世記二章七節)

 それにはまず、「体」という目に見える「形」が無ければなりませんでした。

 このことは、色々な霊的な事柄に通じると思います。

 神様は、私たち人間に、罪とは、愛に生きるとは、また神に近く歩むことは、どういうことなのかを教えるために、まず見える形での数々の律法を与え、それを守るように告げられました。

このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。(ガラテヤ人への手紙三章二十四節)

 真理に踏みとどまり、天国に行くためには、十戒のような律法を尊守することだと思って、それを厳重に守ろうとし、再び律法主義に戻ってしまっているクリスチャンがいます。しかし、救いは恵みによるのであり、愛は律法に優るものだということを覚えていなければなりません。一旦、イエス・キリストに出会った魂は、再び律法という形に戻るべきではないのです。聖書にこうある通りです。

しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。  (ガラテヤ三章二十四、二十五節)

 私たち人間は非常に弱いものです。書かれた規則に沿って生きなければ、神を怒らせてしまうのではないか、また、それを守らなければ、神に受け入れられないのではないかと、不安になるのです。それは神がどのようなお方か、またその神が一番に望まれていることとは何かをしっかり理解していないからなのだと思います。こうした人の弱さに対して、パウロは聖書でこう語っています。

自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし(律法の一つである)割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。 

あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。      (ガラテヤ書五章一~八節)

 これはユダヤの昔からの割礼に関する律法だけに当てはまるのではありません。あらゆる律法、あらゆる(神による)規則の神髄に当てはまります。もし自分を正しい者とするために、それらの規則を守ることに依存するなら、それは規則の奴隷、律法の奴隷です。神にではなく律法に支配されているのです。第一、聖書にあるたくさんの律法を守ろうとしても、それは到底無理なことなのです。

 ある人は、私たちは確かに律法から解放された。しかし、安息日は守らなければならないと言う人もいます。しかし、イエス様は、かつて地上に来られた時、安息日に病人を癒したり、弟子たちは穂を摘んで食べたりしました。パリサイ人は、それは律法に反したことだと批判しましたが、それに対してイエス様は何と言われたでしょう?

そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。

そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」。イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。

人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。」(マタイ十二章一~十四節)

イエス様は安息日が大切ではないと言われたのではありません。安息日とは、神を愛する者がその愛と感謝と信仰ゆえに、神に礼拝する大切な日です。愛の思いからではなく、うわべだけの形式の安息日にしてしまっていた人々に対して、イエス様は、真の安息日と、真に神が望まれていることを、はっきりと示されたのでした。

<パート2に続く>