砂漠のオアシス  二〇一四年八月十四日 ひとしずく一六四四

私はここ数日、道の駅で車中泊をしています。そして道の駅で車中泊するようになって気づいたことがあります。それは意外にも、車で夜を明かす人が多くいるということです。夜、駐車場に行くと、いつもほとんどの駐車スペースはいっぱいです。車のウィンドウから見える運転者の人達は、多くがその場所で泊まろうとしている人たちです。

 私の車の隣りに停まっている車には、髭が長く顔も日焼けして真っ黒な人が乗っていて、彼はいつも車の中で寝泊まりしているようでした。もしかしたら、車は持っているけれど、ホームレスの状態なのかもしれません。こうした人達の中には、誰とも、一言も交わすことなく一日を過ごす人達もいるかもしれません。もし、そうであるなら、とても孤独なことです。

  私はと言えば、自分達の家に泊まったらいいよと言ってくれる人達がいるものの、車の中に布団もあるし、気兼ねなく夜を過ごせるだろうと思って、車で寝ることにしているのです。

ところが、車は眠るだけなら良いのですが、仕事をするとなると容易ではありません。コンピュータを使うにも、インターネットはできませんし、 トイレに行くにも暑い最中歩いていかなければなりません。

 そんな私に、Lホームの人が、「今日、自分は日中仕事でいないので、私の部屋を使ってもいいですよ」と言ってくれました。おかげで、私は日中その人の部屋でコンピュータの仕事を進めることができました。また他の人も部屋を使ってもいいと申し出てくれました。

 今、この駐車場で車中泊している人の中には、話をする人も助け合う人もなく、寂しい時間を過ごしている人も多いのだと思います。また世の中にはそういった孤独のうちに生きている人があふれるほどいるのでしょう。

それに比べて私たちは、互いに主の愛をもって、与え合ったり助け合ったりすることができ、それは本当に素晴らしく感謝すべきことだと思いました。

   こうしてお互い、助け合うことのできるのは、私達をイエス様が愛して下さっておられるからです。イエス様の愛の霊がわたし達に宿っているからです。

人がひしめき合い大勢いるのに、孤独死する人達がいのは、一人ひとりの心がそんなにまで、渇き切っているからかもしれません…

ちょうど、渇いた砂粒が集まってもお互いを潤すことができないように。

砂粒の中には答えはありません。

神の与えるオアシスから、あるいは天から落ちて来るしずくからしか活路を見出し得ないのです。

主よ、あなたを信じる者はその腹から命の水がわき上がると言われました。どうか愛の手を差し出している神であられるあなたを信じ、あなたの霊で満たされますように。

 

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。

(ヨハネによる福音書七章三十八節)

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。・・・わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

(ヨハネによる福音書十五章九、十二節)