主の警告に耳を傾ける  二〇一四年 ひとしずく一六四七

先週起った広島の土砂崩れで、特に被害が激しかった安佐南区八木の旧名が、「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)であったという記事を読みました。なるほど、先人達は地名を通して、すでに警告を与えていたのだとわかりました。

 昔は八木蛇落地悪谷と呼ばれていた所が八木上楽地芦谷と改名され、さらに今は八木という地名だけが残ったようです。もしも、こうした警告を表す名称が変えられていなかったら、そこに住むことを躊躇した人たちもいたかもしれません。確かに蛇が落ちる地、悪い谷という地名ではあまり印象がよくありません。そのような名のつく場所に住みたいとも思わないでしょう。そんなことから、名前が変えられていったのだと思いますが、先人たちの大切な警告が軽んじられ、忘れ去られてしまったことを思うと、残念でなりません。「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」ということわざ通り、この災害も時の流れと共に、やがては忘れ去られてしまうのでしょうか。中には災害の起きた地に、先人たちの警告ともいえる記念碑を立てている所もありますが、そのように一度起った災害を忘れないようにすることが、何よりも大切な災害への備えになるのではないかと思います。

ところで、警告を軽んじ、無視し、聞こうとしないのは、私たち人間の性質なのかもしれません。原発事故においても、汚染水の問題は解決しておらず、収束など程遠い現実であるにもかかわらず、私たちは偽りの安心感を持ってしまっています。再び、大きな地震が来たら、どんな事態になってしまうか見当もつかないというのに。

  日本は国土の三分の二が森林で占められており、今回の広島のような集中豪雨が起れば、日本のどこでも土砂崩れの恐れがあるといわれています。きっと三・一一以来、日本中が地震のために地盤が緩んでいたり、また最近は山に人の手入れが行き届いていないので、土が流れやすい状態になっていて、そこに集中豪雨が襲って尚のこと、こうした結果につながっているのかもしれません。

しかし、私には地震や原発事故にしても、この土砂災害にしても、その原因がどうであれ、主が私たちに、これらの災害を通して、大切な警告を与えておられるのではないかと思えてなりません。主は私たちに、また国に、悔い改めるように呼びかけているのではないかと思うのです。

 どれほど神と神の心を無視した行いが、この国において、また世界においてなされているかを考えると、それら一つ一つの災いが地上に注がれても当然の報いを、私たちは受けているのかもしれません。

 神を無視すること、神の存在の否定、マモン(金銭)の神への崇拝、物質主義教育の推進、子供や弱者に対しての虐待、憎悪、敵愾心、倒錯、殺人、欺き、冷淡、あざけり、無関心・・・。

 国としてだけではなく、神を怒らせないでいる町、村が、この国に一つでも存在しているのかと心配になります。

 災害に遭われた方々が特別罪深かったというわけではありません。私たちの心を見ておられる神は、私達が皆、裁きに値する存在であると知っておられます。

 イエス様が当時、シロアムにあった塔が倒れてその下じきになって死んでしまった人たちについてこう語られました。

  シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるだろう。(ルカによる福音書十三章四、五節)

  

 同じように、主は、地震、津波、竜巻、土砂崩れ、放射能などといった次から次へと起る災害を通して、私たちに警告を与え、悔い改めることを求めておられるのではないでしょうか?

 今まで免れることのできた人々も、主の御前で悔い改めないなら、同じように滅びてしまうということを、イエス様は警告しているように思えます。

また主が、バビロンによって滅ぼされる前に、エレミヤを通してイスラエルの民に語られた以下の警告の言葉からも、私たちは、是非とも学んで悔い改める必要があるのではないかと思います。

「どうして主はこのようなひどい災難をわたしたちに宣告されたのか。わたしたちの悪行とは何か。わたしたちの神、主に対して、どんな罪を犯したというのか。」とあなたに言うなら、彼らに言え、「それはお前たちの先祖がわたしを捨てたため–主の言葉。他の神々に従って行き、それに仕え礼拝してわたしを捨て、わたしの教えを守らなかった。そしてお前たちは、先祖以上に悪を行っている。見よ、お前たちの誰もが、自分の頑なな悪い心のままに歩み、わたしに聞かない…まことに、わたしがお前たちに厚意を示すことはない」 

(エレミヤ十六章十~十三節 フランシスコ聖書研究会口語訳)

残念ながら、このような主からの警告を叫んだエレミヤは、王からもその国の高官や民からも疎んじられ、縛られることになりました。しかし、警告の預言者の口を封じても、やはり主の言葉は成就し、イスラエルはバビロンによって滅ぼされることになったのでした。この主の警告は、今も変わらず私たちに発せられていると思います。

上記の聖句は、何千年も前のイスラエルの国の先祖がその神、主に背いた結果であって、現代の日本にいる私達には関係のないこと、と言う人もいるかもしれません。あるいは自分たちには自分達の八百万の神々がいると言うかもしれません。あるいは、テクノロジーこそ救うという人も。

 しかし、その聖句にある神のメッセージは、今の私達にも同じくあてはまります。天地を造られ、全人類の救いを求めておられる神は、私達の心が主に立ち返るのを望んでおられるのです。

わたしがある国やある王国に対して、これを抜き、壊し、滅ぼすと語り、わたしが警告した悪からその国やその王国が立ち返れば、わたしはただちに、それに対して下そうと計画した災いについて思い直す。(エレミヤ書十八章七、八節)

「見よ、わたしはお前たちに対する災いを形づくろうとし、お前たちに対する計画を思い巡ろうとしている。お前たちは各々、自分の悪い道を離れて立ち返り、お前たちの道、お前たちの行いを正せ」。しかし、彼らは言うだろう、「無理だ。われわれは、われわれの計画に従って歩み、各々、悪い頑なな心のままに行う』」と。

(エレミヤ書十八章十一、十二節)

( (詩編九一篇全部、マルコ八章三八節, エゼキエル書三章十七~二一節参照)